私とスクーバーダイビング

2002年に執筆

 私の19年のスクーバーダイビング歴の中で、もっとも印象的で忘れがたい出来事をいくつか紹介しよう。
10年ほど前、新島で潜っていた時、漁船から海に入って、船は、私たちのはき出す空気の泡を追っかけて、潜っている私たちについてきてくれると言う、いわゆるドリフトダイビングをしていたときのこと。水面の潮流と、少し深いところの潮流が逆になっていて、私たちが進む方向とは逆方向に、はき出す泡が流れていたものだから、私たちについてくるはずの船が、全然違う方に行ってしまっていた。リーダーのインストラクターがすぐに異変に気づいて浮上したが、船は、遙か彼方。折からうねりが高くなってきて、遠くに見えている船は、なかなか私たちを見つけられない。はいているフィンをはずして、ふってみたりし、やっと船が私たちを見つけたころには、私たち40分ほど漂流していた。空は、とてもきれいに晴れ上がっていた。そんなに遠くない所に新島の海岸線は見えるのだが、波が高く、とても近づける状態ではない。私たちを見つけた船は、全速力で近づいて来てくれ、重さ10㎏以上あるタンクをインストラクターに預けて、私は、最初にはしごをあがり始めた。ところが、とにかく流れがきつくて、船が傾き、はしごはオーバーハング状態。落ちたら大変だし、早くしないと下で待っているダイバーを上げることが出来ない。とにかく必死ではしごにしがみつき、高い船縁を越えて、私は、そこにへたり込んでしまった。早くどかないと後のダイバーに迷惑だとわかってはいるが、船にあがれた安堵感からか、とにかく全然力が入らない。水面を見ると、他のダイバーが波にもまれている。うねりは相変わらず高い。他の仲間達も必死で船にあがってくる。最後に二人分のタンクを持ったインストラクターがあがって来て、みな、やっとほっとした。40分の漂流の間、波も高かったし、ちょっと不安だったけど、空が青くすんでとてもきれいだった。「あのときは、吉野さんもまだ体力あったんですね。あんなオーバーハングのはしごあがれちゃうんですから」と、インストラクターの感想。「必死だったので」と私。

私って(自己紹介)

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(左の写真 岡山での講演風景 右インドネシアでのダイビング風景 ) 

私が、障害者福祉や視覚障害者のリハビリテーションに関わる様々なことで、講演などに呼んでいただくと、最初にする自己紹介は、いつも次の通りである。
 「ただいまご紹介いただいた吉野です。私は、現在高知女子大学社会福祉学部で、障害者福祉などを研究し教えています。1947年生まれで、現在58歳。右片側に杖をついているし、身長が小さいので足の障害は、みなさんにも良く分かると思いますが、実は、目の障害(弱視)の方が、生活には困ることが多いです。視覚障害の原因はと言うと、先天性白内障で、私は、生まれて来たとき、すでに水晶体が白く濁っていて、光を全然通さなかったので、生後3ヶ月から6回に分けて両眼とも水晶体を摘出してしまい(無水晶体症)、視力は矯正しても0.2出ない状態です。足は、原因不明ですが、大腿骨が内側に曲がってしまう状態でした。私が生まれたのは、第二次世界大戦が終わってすぐのことなので、医学も今みたいに進んでいなかったから、私がなぜこのような障害を持って生まれたのかは、良く分かりません。私も、女性なので、年を言うのは好きではないのですが、障害者として生きてきた自分のことを話そうとする時、58歳と言う私の年は、とっても重要な意味があるのです。それは、我が国の障害者福祉が、第二次世界大戦以後、飛躍的な進歩をとげ、私は、運良くその発展の時代に生きてくることが出来たからなのです。」
 そして、講演の本題に話を進めて行くわけである。