ビジュアル系視覚障害者としてロービジョンのある方が「見えにくいけれど見えていること」をエンジョイできる世の中にしたい

 ビジュアル系研究者の話題で盛り上がって
 2月8日、視覚リハ協会HP作成を協力して行った仲間たちと久しぶりに交流会を開いた。この日は、6人の参加だったが参加メンバーは、視覚リハ協会の会員で視覚障害者の支援に当たっている専門家3人(私もその一人)、プロボノとして視覚リハ協会HP作成に力を尽くしてくださった障害のない方二人、そして中途視覚障害がありながら一般企業の中で頑張っている方一人という顔ぶれ。美味しいランチとお酒を飲みながら、楽しく深い会話をした。その話題の中で、中途視覚障害を持って企業で頑張っている方から「ビジュアル系研究者」のことについて紹介があり、その話で盛り上がった。紹介されたその方は島袋先生といい、NHKが主催している第54回NHK障害者福祉賞で佳作になった方。2月2日にはNHK第二放送の視覚障害ナビラジオでインタビューも受けていた。既にどちらもネット上に公開されているので、詳しい内容は、下記リンクを参照。
 第54回NHK障害者福祉賞佳作内容
 視覚障害ナビラジオ再放送はこちら

 この人かっこいい、考え方に共感、刺激された
 話題の島袋先生は、網膜色素変性症で現在左目のみ矯正視力0.7、視野2度とのこと。その針の穴から見えるほんのわずかな見える部分をいろいろと工夫しつつ活用して顕微鏡を使って細胞の動きを研究している研究者、白状をついて学会に行き、研究発表はビジュアルにわかりやすく行うのだという。これからもできうる限り、その姿勢を貫くのだと書いておられる。
 すごい、先天性のロービジョンの当事者として、見えていることの喜びを主張し、保有している視機能を充分に活用して行くことを支援していただくことの大切さを主張してきた私にとって、とても刺激的なことだった。
 この島袋先生の文章やインタビューに刺激されて、幸いにも「見る」ことを獲得して、そしてそれを72年間保ち続けてこられた自分のことを振り返って見たくなった。
 長文になりますが、興味のある方は読んでいただければ幸いです。

 生後6ヶ月で開眼手術を受けられた幸運
 私は、1947年(昭和22)に東京で生れ、現在72歳である。小眼球症で白内障があり、眼に光の全然入らない状態で生まれたらしい。生後3ヶ月の時に母が私の目の異常に気づいて、必死になって眼科の名医を探してくれ、その当時文京区の雑司ヶ谷にあった東大分院で、桐沢先生という名医に巡り会って、生後6ヶ月から小学校に入学するまでの間に7回に分けて濁った水晶体の摘出手術を受けた。
 72年前の医療水準では、小児の白内障手術(開眼手術)は、安全のために10歳ぐらいにするというのが常識だったとロービジョンケアの勉強をするようになって学んだ。赤ちゃんは、見る練習を繰り返して視力が発達するのだそうで、その発達の完成は7歳から8歳がビークということを何かの本で読んだ気がする。10歳になって開眼しても、視機能の発達は充分になされないし、10歳で見えるようになっても、見た物の情報を理解するようにするには、沢山学習が必要なのだと言うことも後から学んだ。こういうことを勉強して行くと、こんなに早く手術を受けられた私は、すごくラッキーだったのだということをだんだん理解するようになった。

 16歳で弱視児のことを研究している先生に出会った幸運
 
1年遅れで7歳で現在の筑波大学付属視覚特別支援学校に入学した。そのときは、水晶体の摘出手術は終わっていて、確か16Dぐらいの凸レンズを眼科医から処方されてかけていた。良く覚えていないのだけれど、遠くを見るときは、かけためがねをずらして裸眼で見ていたのではないかと思う。
 その頃の盲学校では、「いずれ見えなくなる」「目に負担をかけると見えなくなるのが早くなる」というような常識があって、私のクラスには全盲はいなかったけれど、すべて指で点字を読むという形での教育だった。確か1964年(昭和39)ごろに付属盲学校でも弱視教育が始まったと後で学んだ。
 私は、そのころ矯正して0.04ぐらい見えていたし、テレビが好きで、おはじきや塗り絵でも遊んでいたから、結構視覚的な世界で生きていたと思うのだが、今のように屈折率をきちんと検査してのめがねの処方というのは受けていなくて、16歳になるまで、16Dのめがねだけで日常を過ごしていた。
 そんな時に、生物を教えに来ておられた先生が弱視の目についての熱心な研究者で、その先生が私を見つけて「何でそんなに自分に合わないめがねを使っているんだ」と怒られて(とても優しい思いやりのある先生だった)、しっかり視力検査をしてもらって、初めて遠用のめがねと文字を読むなどの近用のめがねを使い分けることを教わった。ちょうど単眼鏡の良い物が開発されてきて、その情報も得て、いろいろなレンズを試して見るようになった。
 この時期に8倍の拡大率のあるキーラーの弱視レンズを使って文庫本の文字を読んだり、英語の辞書を引いたりができるようになった。倍率が大きいと、読みたい物をうんと近くに持ってきてピントを合わせないとうまく文字が見えない、私は自然にそのやり方を学ぶチャンスを得た。これも後で分かったけれど、普通に見えていた方たちは、30センチぐらいの距離で文字を読むのが当たり前のことなので、近い距離で文字を読むのになじめない。若い内ならトレーニング可能なのだ。
 この時期に弱視レンズに出会い、その使い方を教えていただいてラッキーだった。

 眼科医療から離れないことの重要性
 私の目の状態は幸い安定していて35歳ぐらいまでは、見え方に変化もなく、弱視レンズの力を借り、発展してきたIT関連機器等を利用して、見ることに関しては、その能力が上がってきたように思っていた。
 ところが30歳の半ばを過ぎたころから右目の方に、窓ガラスに水滴がついたような症状と、ヒリヒリとした痛みが出るようになり、角膜水疱症という診断名がついて、症状がひどくなったら「角膜移植」しか方法がないといわれ、幸い角膜はきれいで、矯正して0.15ほど見えている左目の方は、眼圧が高めで緑内障の可能性を指摘され、それからずっと、角膜専門外来に通い、弱った角膜を保護するための目薬を処方され、左目には眼圧を下げるための目薬をさしている。

 67歳の時に暗いところから明るいところに出ると、何か黒い陰が動くような症状が左目に出て、「網膜剥離を起こしたのではないか」と網膜専門の眼科医のところに飛んでいった。そこで「高齢になると硝子体が液化すること」による症状であることが分かり、経過観察のため、今でも6ヶ月に1度は定期的に大学病院を受診している。
 私の視機能がなんとか今まで維持できたのは、質の高い眼科医療との関係を継続的に続けてこられたからだと思っている。

 一生を通しての質の高い支援が必要
 「ビジュアル系研究者でいこう」の記事を読ませていただき、インタビューを聞いて、島袋先生の並々ならぬ努力と、的確に専門家や支援サービスを活用して、その視機能を最大限に活用しておられることに感動して、そして自分の今までも、これからもビジュアル系の視覚障害者を表明して行きたいと思ったとき、自分の視機能を今までどのように維持してきたのか、どうしていろいろな情報を活用できたのかを振り返って見たくなったので、この記事を書き始めた。
 すごく簡単にいってしまえば、生まれてすぐに最先端の治療を受け、適切な時期に、弱視のことを研究している優れた専門家のアドバイスを受けられ、そして、50歳を過ぎたころからは、視覚リハの普及活動を自分のライフワークとして、いろいろと活動させていただいたので、眼科医療やロービジョンケアの最先端の情報を入手でき、人とのつながりの中で、必要に応じて眼科医療を受け、最先端の補助機器を利用することができた。すごくラッキーだったのだと思った。

 そこで改めて、私のライフワーク、「せっかく少しでも見えている、その視機能を保ちながら、最大限に活用するための支援」が、今のように特別なルートを持ったり、特別なつながりなどなくても、誰でも必要な人が受けられるような、ロービジョンケアのシステムが構築されるように、ほんの少しでも何か役割を果たせればと思っている。

 見えにくいという障害を持っていて、「治らない」となると、多くの方たちが眼科通いをしなくなる。見えにくさが進んでも「元々の障害原因から来ているもの」と勝手に判断して、眼科を訪れない方も多い。実は元々の障害原因のためではなく合併症や違う何科が作用している場合も多い。
 視覚補助具の進歩もすごいし、それを使いこなせば、生活が便利になるが、どんな機器をどのように使ったら良いかなどのアシストはなかなか受けられない。
 自分の見え方を最大限に生かし、またそれを維持するために必要な支援に、誰でもいつでもたどり着けるようにしたいと強く思った。