はじめに
月刊視覚障害-その研究と情報-は、全国の盲学校や点字図書館で購読されており、活字での発行と共に点字で約600部発行されている。歴史も古く、多くの視覚障害当事者とその支援者に愛読されている。
その雑誌に「視覚障害リハビリテーションを理解しよう」というテーマで、現在の視覚障害者の現状や、その支援の状況について、具体的に分かりやすく書くというチャンスをいただいた。そこで、発行元の視覚障害者総合支援センターの許可を得て、連載した原稿をこの私のブログにも転載させていただくことにした。
なるべく分かりやすく書くつもりなので、当事者の方や家族の方、視覚障害者支援をはじめたばかりの方に見ていただいて、少しでも役に立てていただけたらと思っている。
第1回 ―衝撃的だった中途視覚障害者との出会い―
1.中途視覚障害者との出会い
私は、昭和22年生まれの64歳。先天性白内障で濁ってしまった水晶体を7歳までに摘出して無水晶体眼の状態のロービジョン者です。矯正視力は現在左0.2、右0.03、大腿骨の発育不全があり視覚障害と身体障害を併せ持っている重複障害者です。運のいいことに私の実家の近くに東京教育大学付属盲学校(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)があり、その小学部に昭和30年に入学し、そのまま中学部に進みました。
昭和30年代の頃は、視覚障害者の一般的な職業はあはき(あんま・梁・灸)と言われており、中学を卒業するとほとんどの生徒は、高等部理療科に進学しましたが、足の障害のために体力が必要な三療業はできないという思いと、「違う仕事にチャレンジしたい」という思いから、私は高等部普通科に進み、「大学の門戸開放運動」の高まりの中、名古屋にある日本福祉大学を点字で受験し、昭和49年にそこを無事卒業しました。
点字しか使えない視覚障害者が大学を出ても就職口などほとんどなかったその頃、途方に暮れていると、日本福祉大学での学習をサポートしてくださっていた名古屋ライトハウスあけの星声の図書館(現名古屋盲人情報文化センター)の岩山館長(全盲)が「この頃、人生の半ばで失明した人が訪ねてきて『これからどうしたらいいのか分からない、死んでしまいたい』等と相談を持ち込まれるようになった」「あなた社会福祉を勉強して来たんだから、点字図書館の仕事をしながら、そういう人の相談に乗ってみないか」と誘ってくださり、就職することになりました。
私の出た附属盲は、我が国唯一の国立の盲学校で、全国から選抜された優秀な視覚障害者が集まっていました。視覚障害があっても、みんなとても活発でしたし、白い杖1本持って全国を飛び歩く人、アメリカやヨーロッパに旅する人がいました。そういう人たちの中で育った私は「視覚障害というのは不便だけれど、世間の人が言うほど重い障害ではない」と思っていました。
そんな視覚障害観を持っていた私が、あけの星声の図書館で出会った中途視覚障害の方たちは、「目が見えなくなって1人でトイレにも行けない」「見えないので歯磨き粉を歯ブラシにつけることもできない」「何を食べてもみんな同じ味に感じる」と訴え、途方に暮れ、そして良く「死んだ方がましだ」と言うのでした。
「この方たち、本当におんなじ視覚障害者なの」「人生の半ばで見えない見えにくい状態になるとこんなに何にもできなくなってしまうの?」私はびっくりし、その方達のあまりにも打ちひしがれた姿にショックを受けました。
2.社会福祉学を学んだことを頼りにして
中途視覚障害者に初めて出会って、こんなにショックを受けた私ですから、当然その頃は「幼いころからの視覚障害者」と「中途視覚障害者」の大きな違いについて何にも知らなかったし、歩行訓練や視覚障害リハビリテーションに対する知識は何も持っていませんでした。しかし、そんな私にとって、4年間学んで来た社会福祉の知識は、とても大きな武器になりました。
私の大学時代の恩師は、私に色々と貴重な言葉を語ってくださいましたが、中途視覚障害者に出会った時、特に役に立ったのは次の言葉でした。
「あなたが障害があるから障害者福祉の研究をするのは、私はあまり賛成できない」「どうしてかというと、障害があると自分のその体験に拘って、そこからしかものを見なくなるから」「自分の体験を離れてきちんと学ぶ事が大切」。私は、「幼い頃からの視覚障害者」ですから、その私の体験に拘ることを戒めつつ相談に来てくださった人たちの話をできるだけ聞くように努力し、視覚障害リハについて真摯に学ぶことからはじめました。
40歳代50歳代で見えない、見えにくい状態になった方の抱えている1番大きな問題は生活問題で、「盲学校に入学して三療業の資格を取りたい」という相談が多かったので、その方たちには点字の読み書き指導と録音図書の使い方などを教えました。今なら音声パソコンの使い方や拡大読書器などの使い方指導がメインだと思いますが、40年前のことですから、まだそのようなものは普及していませんでした。
経済的自立を目的としない、高齢の中途視覚障害者や主婦の方たちには、居場所作りとしての俳句や短歌の集まりを行なったり、家庭訪問をして点字の指導をしながら話し相手になったり手探りでの関わりを行ないました。
そんな手探りの関わりでも、働きかけをして行くと、今まで無気力で「死にたい」と言い、暗い顔をしていた方たちが、少しずつですが前向きになって行くのを感じることができ、やりがいがありました。
その一方で、こんな辛い例もありました。ある病院の医療ソーシャルワーカーから相談を受けたのですが、「事故で失明し、医療扶助(生活保護の医療給付)を受けて10年も入院している方がいて、入院が長くなっているので何とか退院させたいのだが、身よりもいないし、どうしたらよいか」ということでした。病院では、「目が見えないので危ない」と1日中ベッドに寝た状態で、トイレはベッドの側に置いたポータブル便器でし、食事はベッドの上で食べるという生活をしていました。この方は全盲ですが、視覚以外他に障害がないのに、とにかく「危ないから」ということで、10年間もこんな生活をしていました。
手引きで歩く事から初めて、体力が少し戻ったところで、視覚障害の方も受け入れてくれる「厚生施設」を探して入所しました。その方が「もっと早くにこういう施設があると分かっていたら、自分も自立できたのに、10年間も人生を無駄にした」と悲しそうに言っておられたのが忘れられません。
こんな極端な例はさすがに少ないですが、この当時、見えない、見えにくい状態になって、あけの星声の図書館や盲学校に相談に来るまで、10年近く家に閉じこもっているという例は、珍しいものではありませんでした。
私はあけの星声の図書館で、2年間で述べ50人ほどの中途視覚障害者に出会い、それまで知らなかったもう1つの視覚障害者の問題、すなわち中途視覚障害者の問題を知り、視覚障害リハビリテーションシステムを全国に普及することを私のライフワークにしようと決めました。
3.なぜ今こんなことを書かせていただいているのか
ここまで読んできてくださった皆さんは、きっと思っているでしょう。「確かにここに書かれている例はひどいけれど、40年も前のことでしょう。今は、中途視覚障害の方へのリハビリテーションは普及しているんでしょう」「今更昔のことを書いてどうするのかな」と。
本当にそうでしょうか。1999(平成11)年に高知女子大学に赴任して、そこで視覚障害リハビリテーションの普及活動を再び始めた私は、「40年前と事情はちっとも変わっていない」と実感しています。そして、この事実は、昨年の3月11日に起こった東日本大震災の後の視覚障害者支援活動の中で、図らずも客観的に証明されてしまいました。すなわち、被災地の視覚障害者で身体障害者手帳1、2級を持っている方に、日盲委(日本盲人福祉委員会)の災害対策本部が「視覚障害者向けの物品の支援に関する希望調査を行なったところ、約4割の方が「音声時計」の存在すら知らないと言うことが判明したのです。
視覚障害リハビリテーションについては、残念ながらまだまだ理解されていません。そこで私が、この紙面を借りて、視覚障害リハビリテーションとは何か、その必要性、効果、専門家の役割等について、沢山の事例も交えて分かりやすく書かせていただきたいと考えております。