ブログと言うのも不思議なものだと思うのだが、一度書くことから遠ざかると、なかなか書けなくなるし、また戻ると続けて書けるものらしい。
いつかどこかで書かなければと思いながら、時間が経ってしまった話題を、今日書くことにした。
私は、来年3月31日で大学を退職することにした。
「どうして、定年までまだ4年もあるのに」
「もったいないじゃないの、最後までいれば、退職金だってずっと違うのに」等々
沢山の人達に、「辞めるのはやめたら」と言っていただいた。私にとって、それはとてもうれしいことだし、実は、この3年ほど、悩みに悩んで出した結論である。
なぜ辞めるのかと訪ねられれば、
「体力の衰えをひしひしと感じるから」と答えるしかない。
今何をするにも、自分が「これでできる」と思った時間の二倍はかかるようになって来た。それに、集中が続かなくなったためか、とにかくあちこちでミスをするようになって来た。
今のところケアレスミスだから、大して支障もないけれど、そのミスを修正するために、またまた時間がかかってしまって、とにかく物事をこなすにも、判断を下すにも時間がかかるようになった。
時間がかかれば、疲れ方もひどくなる。そして回復も悪い。
こんな状態で、65の定年まで勤めたら、きっと辞めた後、何もできないような抜け殻みたいになってしまうのではないかと思った。
私はとても欲張りで、大学の仕事もきちんとやりたいと思うし、もちろんやるべきだし、さりとて、今まで続けて来た「視覚障害リハの普及活動」や「障害者福祉に関わる様々な地域活動」も私にとって、とてもとても大事なことである。
今までは、この二足のわらじを、たぶん周りの方たちには随分迷惑をかけていたのかもしれないけれど、自分なりには、何とか両方ともこなせて来たと思うのだが、もう今の体力では、とてもこなしていけない。
それならば、少し力の残っている内に、どうしても「視覚リハの普及活動」や「障害者福祉の地域活動」に専念したい。
そんな気持ちが抑えられなくなって来た。
私が、「視覚リハの普及活動」などができて来たのは、「大学の准教授」と言う看板があったからかもしれない。だから、もしかすると大学を辞めたら、何もできなくなるかもしれない。などと今も、しょっちょう不安な気持ちがわいてくる。
だから、こうしてブログに書いて、自分に「覚悟しろ」と言っているのかもしれない。
とにかく、新しい環境に適応できる体力が残っている内に、新しいことにチャレンジして見たかったのである。
辞めることに後悔はないのかと言われると、「後悔はないけれど不安は一杯」と言う所だと思う。
ただ、後悔ではなく、とても心残りなことはある。
それは、私が辞めてしまった後に「障害をもった教員」を推薦できなかったことである。
推薦するなんて偉そうなことをいったって、私はただの平だから、もちろん力があるわけではない。そういうことではなくて、今大学と言う所で、少なくとも内の学部で、障害をもった教員を仲間に加えられるかと言うような意味のことである。
私は、ロービジョンで、事務能力に大きなハンディがあるにも関わらず、学部の入試委員長、教務委員長などの仕事をさせていただいた。これらの激務ができたのは、同僚のすごいサポートがあったからである。
私の代わりに複雑な図形を見ながら時間割を組み立ててくれたり、入試の事務でミスが出ないように、周りからサポートしてくれた仲間たちがいて、はじめてやらせていただいた役職である。
たぶん、今は、このサポートは得られないと思う。それは、仲間たちにその気がなくなったからでは決してない。そうではなくて、今障害をもたない教員も、みんな自分の仕事をこなすのに必至で、やってもやっても終わらないほどの仕事を抱えているからである。
気持ちはみんなもっていてくれるけれど、皆くたくたになっている。大学改革、新しい資格制度、大学の法人化、財政危機、みんなのゆとりがなくなる理由は、山のようにある。
とにかく競争が激化していると言うことを、今ひしひしと感じてしまう。
私は、すごく図々しいし、しかも鈍感で、障害のない人達も本当に大変なんだと言うことを、すぐに忘れてしまうようなところがある。だから、内の大学でも、随分いろいろなことをやらせていただけたのだと思う。
でも、そんな私でも、さすがに、このゆとりのなさや、厳しさを感じないわけには行かないのである。
障害者は障害者、どんなにがんばったって、障害のない人の3割、あるいは5割の仕事ができれば良いと私は思う。もちろん様々な工夫で、できる仕事の量は、増やすことができるだろう。
でも、障害のない人と同じにはできない。そういう障害をもつ同僚を一人前の仲間として、職場が支えていこうとしたら、職場全体に、いろいろな意味でゆとりがないと無理である。
無駄はいけないけれど、ゆとりは必要だ。
そのゆとりが「無駄」と混同されて、そして競争社会の中に消えてしまっていく。
そんな中で、障害をもつ教員や労働者は、これからどうしていけば良いのだろうか。暗澹たる気分になって来る。
とにかく、私は自分で決断して、とても安全で充実した環境から出ることにした。だから、戦線離脱したんだなどと考えるのではなくて、前向きに考えて、やって行こうと思っている。