母の車いすが空を飛ぶ

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 「飛んでいけ車いす」というNPO法人を札幌で主催していた方が、うちの大学に赴任して来たことをきっかけに、高知女子大にも「いけ飛べ」というサークルが誕生しました。

 「いけ飛べ」の活動というのは、いろいろな事情で使われなくなった車いすをきちんと整備して、東南アジアを中心とする発展途上国で、車いすを必要としている人達に送る活動をしています。最近では、タイとガーナに車いすを届けました。
 今日、私の家に、そのいけ飛べの人達が母の車いすを取りに来てくれました。いずれ、母の車いすもメンテナンスされて、どこかの国で車いすを待ち望んでいる人に届けられるのだろうと思うと、何ともいえない気持ちになりました。
 そこで、母と車いすにまつわる思い出を、少し書いてみることにしました。

自宅の玄関で、母の車いすと私
(自宅の玄関で、母が高知に来てから使っていた車いすを渡そうとしている所)

 母に骨粗鬆の症状が出始めたのは、母が70歳ぐらいの時でした。父が呼んだ指圧師の人に母ももんでもらって、脊髄の圧迫骨折をしたのが最初でした。その頃は、まだ骨粗鬆症といっても研究が始まったばかりで、あまり良くは分かっていなかった時期でした。
 5年間ぐらいは背中はどんどん曲がってきてはいましたが、少し認知症になりかけていた頑固な父を抱えて、母は気丈に家事をこなして、家の中では普通の生活をしていましたが、長い距離を歩くのが辛くなったようで、外出の時は車いすを使うようになりました。こうして1台目の車いすを買いました。

 阪神大震災の起こった前年の年の暮れに、椅子から立ち上がって歩き出そうとした時に、母は左足の大腿骨の亀裂骨折をしてしまいました。「いたい、いたい」といいながら、それでも歩いて、父を会社に送り出していた母の姿を今でも覚えています。
 検査のために病院に行って、そのまますぐに入院、リハビリも入れて4ヶ月ほど入院した母の代わりに、父の面倒を見るようになった私ですが、なれない家事と仕事の両立で、全然ゆとりがなくなって、実は阪神大震災のこと、ほとんど印象に残っていません。本当に自分のことだけで精一杯だったのでしょうか。
 
 母は、デパートでの買い物と温泉への旅行が好きでした。長い入院生活できつかった母、退院の時、自宅に帰らずに、箱根の温泉に行きました。私が車いすをおして、新宿からロマンスカーに乗って、まだ短い距離や、階段は車いすを降りて歩くことができた母でしたから、こんなことができたのだと思います。

 私と共に高知に来てくれた母ですが、環境の変化に耐えられなかったのでしょうか、高知に着いて10日ほどで入院することになりました。体力が落ちてきた母には、背もたれのある車いすが必要になって、2台目の車いすをあつらえました。それが写真の車いすです。
 38キロしかなかった母のために、座るところを小さくして、クッションをおいて、力のない母は、普通の長さのブレーキを動かすことができないので、長い特注のブレーキをつけました。

 高知に来てからほとんどの時間を病院と施設で過ごした母、車いすは食事の時の椅子代わりで、外に出ることもなかったのですが、高知福祉機器展で知り合った方たちのサポートを受けて、2回だけ外出ができました。
あじさいを見に外出した母と私
(春野のあじさいの名所での私と母)
 
 この頃の母は、だいぶ元気になっていて、背もたれがなくてもきちんと首を支えていることができていました。

 母の骨粗鬆は進んでいって、ここのところは寝たきりになってしまいました。そして自宅に置き去られていた母の車いす。それが、また役に立つ、とってもうれしいことです。

 特注だったので、母のこの車いすは10万円以上しました。母との思いでも詰まっています。それが主を失ってさびて使えなくなるなんて、とても辛いことでした。それが新たな役割を持つ、すてきなことです。
 これからも、「いけ飛べ」の活動が、長く続くように私なりに支えて行きたいと思っています。

 いろいろな事情で使われなくなった高価な福祉機器、車いすだけではないので、他の福祉機器も、メンテナンスをして、使いたくても買えない人達に生かしてもらえるような、そんな活動が広がればと考えています。