11月も今日は21日、ようやく少し冬らしくなって来ました。
今月はなぜか視覚障害関係の方とお目にかかるチャンスが一杯ありました。
この週末には、岐阜盲学校の校長先生がおいでになって、視覚障害児(者)の教育について、熱っぽい議論ができました。
話は変わるのですが、11月13日の日に、全盲であんま・マッサージの治療院を営んでいるご主人を助けながら、2人の子育てをして、今はご自分のお母様を介護しているスーパー視覚障害者を、私の障害者福祉論の授業の講師にお招きしまして、体験談を聞かせていただきました。学生たちに少しでもその方のことを分かってもらおうと、その方の書いた文章を印刷して配布していたのですが、とてもすばらしいので、岐阜盲の校長にもお見せしたところ、感激なさって、岐阜盲の先生方にも配られたのだそうです。
そこで、私は思いついて、著者の井川さんの了解を得て、このブログに掲載して、沢山の人に読んでもらうことにしました。
文章に特に表題がありません。
視覚障害者用のマイワードというソフトを使うと、きれいにレイアウトできるのですが、テキストファイルをコピーすると、ちょっと読みにくいかもしれません。内容がすてきなので、是非読んで下さい。
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皆さん私は井川喜美子と申します。
私は、現在高知市に住んでおりますが、生まれ育ったのは、室戸市の羽根町と言う所でございます。国道沿いの小さな路を少し山手に上がった所に家がありまして、裏には山があり、川があり、そして、風の強い日には、海から潮がとんで来るような、そんな所で育ちました。
私が失明したのは、満2歳と3~4ヶ月のころだったと聞いております。生まれたときは色がぬけるように白く、ぱっちりと澄んだ眼で、それはそれは元気で綺麗な子だったそうです。9ヶ月半になるともうどんどん歩き出し、言葉ももの凄く早く喋るようになったそうです。近所の人たちは、まあこんなにはようから歩いたり喋ったりする子は珍しいよと皆口々に言ったそうです。元気に遊びまわる日々が続いたようですが、2歳ぐらいになると、白まなこから黒まなこにかけて米の芽の半分くらいの白い物がぷっと上向けにでるようになり、母は「これがたまるかこれほど大きな物が眼にはいってなんぼか痛かろう、はようのけちゃらにゃあいかん」と思い日本手拭いの先をこよりによってぷっとはねてやろうと思い見てみるともうその白いものは消えてなかったそうです。4~5日に一回くらいのわりあいでそんな症状が表れるようになり、又そのころ右足の外くるぶしのところが2~3㎝位の幅で少し硬く盛り上がっているのに気がついたそうです。母は「これは不思議なことじゃどうしたことやろう」と思い眼科を訪ねたそうです。診察をして終わると先生は大きく溜め息をひとつつき ソファーにどかっと腰を下ろしてしばらく無言だったそうですが、これは知らない普通の患者さんだったらここまではよう言いません。けれども知った仲でありやがては症状として表れてくるからかくさずはっきり言いましょう。今はこうして元気に走り回っているけれどやがて失明し、又失明だけじゃなくて熱がでて体もあちこち悪くなってくるでしょう。私がこう言うと貴女は気が狂ったようになりあちこちの医者を走り回ることでしょうが、いくら何軒の医者へ行っても目薬の一滴も有りません。医者へ行く金があれば少しでも美味しい物を食べさせ一日でも長く生きさせてやってください。この子はいくら長く生きても六つまでしか生きません。おそらく六つまでも生きないでしょう。とおっしゃったそうです。母はその言葉を聞くと居ても立ってもおれず高知へ行き何軒もの医者へ行ったようですが、その先生がおっしゃった通り注射の1本、薬の一服もなかったそうです。でもまだそのころは熱もでず元気に走り回っていたそうですが、二歳と二ヶ月ごろの旧正月の朝「はようあたりにきなさい、囲炉裏で火が燃えゆうよ」と母が呼んだのですが「どこ、どこ」と言って手でさなぐったそうです。「こりゃ、こまった、いよいよ見えんなったもんじゃまあとにかくはよう医者へいかにゅあいかん」と言って慌てふためいて又最初の先生を訪ねたそうですが先生は沈んだ顔で「ああやっぱりこうなったか連れて来てくれたけれど私としてはどうしてやることもできん、すまん、
あの時私がやがてこうなると言ったでしょう。まえにも言ったとうりなんの手当ての方法もありません。けれども今こうして見えなくなっていても、一ヶ月か二ヶ月位するといちじてきに見えるようになるかもしれません。でも再び見えなくなったときにはもうおそらく見えるようにはならないでしょう。」とおっしゃられたそうです。一ヶ月位見えない日が続いたようですが、又見えるようになったそうです。でもこんどは日が暮れて行くようにだんだん、少しずつ少しずつ、見えなくなっていったそうです。昨日まで見えていたものが今日は見えない、どうして見えないのか、と言って母や祖母を困らせ、又綺麗な振袖を着て鏡に映しては喜んでいたそうですが、最後にはその着物の色も見えなくなったと言って泣いて怒り母も祖母もとても困ったそうです。どうしてやることもできず、そのときのつらかったことはいつまでたっても忘れることはできんと泣きながら私によく話してくれました。でも私はその見えていたとうじのことはぜんぜん憶えておりません。その後熱がでて足がいっぱいはれ膿がでて痛かったこと、泣いてぐずる私を母がおんぶしてあちらこちらと歩き回ってくれたことは憶えております。そのときハーモニカを吹いてくれたり、又「あの子はだあれ誰でしょね、赤い蟹子蟹ランドセル背負って、笛や太鼓に誘われて山の祭りに来て見たが、つぎからつぎえと優しい声で歌ってくれました。泣いてぐずりながらもいつしか母の背中で童謡を憶えていきました。又長雨が降って外に行けないときはほんとにちっちゃな玩具のような卓上ピアノを弾きながら優しい声で歌ってくれました。その母の優しい声は今でもはっきり耳に残っております。どこの医者へ行っても手のつけようがなく、毎日毎日近くの医院へ足の包帯を巻き変えに行ったようですが先生は、「これほど腫れて膿がいっぱいでて大変だから右足の脛から下を切り落としたらよい」と言ったそうです。祖母は「それはいかん、足を切り落として眼が見えるようになると言うのであれば切り落としてもえいが、いまさら見えんようになってから後に足を切り落としたところでどうしようもない 、ぜったいに足は切らん」と言って反対したそうです。その後は医者へ行ったところでかくべつ変わったこともなく、自宅で毎日消毒をしてガーゼを取り換え包帯をまきかえることにしたそうです。毎日60本位の包帯とガーゼを洗ったそうです。母におんぶしてもらっていると近所の人たちは「まあ可愛そうに足が痛いかね、まだ熱が下がらんかね、綺麗な子じゃったに惜しいことよ」と言いながら私の頭を撫でてくれたり、コンペイトウや蒸したお饅頭を手に持たせてくれたことがありました。そんなことを繰り返す日々が四年あまり続いたようですがストレプトマイシンが使われだしたと言うことを聞き祖母も母も必死でそれを手にいれ近くの医院で注射をするようになりました。しばらく続けているうちに、だんだん熱が下がり始め、少しずつ足の腫れもひきだして、膿のでるのも少なくなり、やっと母の背中から降りて自分の足で庭を歩けるようになりました。でも気が付いて見ると右足の踵が地面へ着かなくなり、足先で歩くようになっていたのです。母や祖母は踵を少しでも下へ付けて歩くようにと、たびたび言いましたが踵を付けようとすると膝から下のうしろがわが突っ張って痛いものですから、いつの間にか歩きやすいように爪先で歩くようになってしまいました。でも爪先で歩いても自分の足で歩けるようになると嬉しくて近所の子供たちと一緒に遊ぶようになりました。祖母と母は目が見えなくなったことをいくら泣いて悔やんでいても始まらない、とにかく前向きに生きるしかない、この子はなるべく人中へ連れ出し、又触れるものは触らし、匂える物は匂わし、体で身をもって覚えさせていくようにしよう、と、話し合ったそうです。それからはますます近所の子供たちと遊ぶようになりました。夏夕方涼しくなると皆でお弁当を持って浜へ行き食べ終わると子供たちと一緒になるべく平たいような石を拾って積み上げてその上に子供たちが順番に一人ずつ上がって歌を歌うのです。私も母の背中で聞いて憶えた童謡を次々と歌いました。歌い終わると周りの大人たちが手をたたいてくれ飴やお煎餅を貰って嬉しかったことを今でもはっきり憶えております。又盆踊りにも連れて行ってもらい私も子供たちといっしょに足を上げたり手を振ったりしているとお菓子や団扇を貰いとても嬉しかったです又は母は庭で沢山の花を作ってくれ触らせてもらい、匂わせてもらって矢車草、アスター、金魚草、次々と名前を覚えていきました。母も祖母も「物に触るときは初めはそうーと優しく触らんといかん、初めからがいにぐしゃっと掴んだら茎が折れたり花びらが散ったりするきに初めはそーと手を持っていき、それから触り始めたらがいに触って良いものか悪いものかがわかるきその力加減を気をつけなさいよ」といつも注意してくれていました。矢車草の大きくなった蕾には小さな子髭がいっぱい付いています。その子髭を指でこしこしっと擦った感触と猫の小鼻周りの子髭を擦った感触が良く似ているなと思いました。
又祖母は近所の子供たちと麦畑へ麦踏みに連れて行ってくれたり、砂糖黍の皮をはぎに連れて行ってくれたりして、そんな日々が続いておりました。やがて近所の子供たちはだんだん幼稚園や学校に行くようになり私は昼間友達がいなくなり、どうして私は幼稚園へ行けないのか、と母や祖母を困らせました。母に絵本を読んでもらったり、お弁当を作ってもらって庭で食べたりしましたが、友達がいなくなりほんとにつまらなく寂しいなあと思う日々が続いていました。そんなある日、佐野先生という方が来てくださり、私を抱き上げ優しい声で「盲学校へおいで。お目目の見えんお友達がいっぱいいてお歌を歌ったり遊んだりできて楽しいよ。」と言ってくださいました。私は「行きたい」と言いました。「今度お迎えに来るから一緒に行きましょうね。」と言って帰られましたがそのときの先生の優しい声はいつまでも忘れることはありません。
おかげで、昭和29年に盲学校へ入学することができました。踵が下へ付かないために気を付けをすることができなかったり、お遊戯がうまくできなかったり、友達と同じ靴がはけなかったり、いろんな不自由なことがありましたが、それでも皆と一緒に平均台を渡ったり、運動会でも走ることができ友達もいっぱいできてとても嬉しかったです。理科の時間に先生から「貴方は花の名前をよく知っていますね。」と褒められたことがありましたが、母からたくさんの名前を教えてもらっていて良かったなあと思ったことでした。
学校が休みになると家に帰りましたが祖母は「家の中へこもっておったらいかん、ちっとでも多く外へいかにゃあいかん」と言ってあちこち連れて行ってくれました。
春休みのお天気の良いときは毎日のように野原や山へ、蕨やいたどりを取りに連れて行ってくれました。お茶瓶やお鍋ご飯、それにお味噌を持って行き、枯れ枝をいっぱい集めて火を焚きお昼には取れ立ちのタラの芽を焼いたり、お鍋でじゃあじゃあといたどりを炒ってお味噌を付けて食べました。お箸の代わりにシダや茅の茎を使い椿やしゃしゃぶの葉っぱを取って来て火でバリバリッとあぶってお茶の葉の代わりにして飲みました。山道は細くせまいので2人が手をつないで行けるところはほとんどありません。山へ行くとき祖母はいつも紐を持って行きせまい道にさしかかると腰に紐をくくりつけ私はその紐に掴まって後ろから歩いて行きました。あちこち行きまわりましたがなかでもいちばん印象深く思い出されるのは丸木橋を渡ったことです。四年生の春休みでした。その日もいつものように祖母の腰紐に掴まって山道を登って行っていたらザーザーと水の音が聞こえ出しだんだんその音が大きくなってきました。祖母は「あっ」と言って立ち止りました。「どうしたが?」と聞くと「滝があって丸木橋がかかっちゅう、さてどうしょう。」と言いました。祖母は黙って考えていましたが、「あていが荷物を全部先に運んで行ってくるきにおまんはここにおりよりよ」と言って先に荷物を持って行き、私のところへ帰って来た祖母は、「あていが先に這うきにおまんはあていの後ろをついて這うてきい」祖母が先に這ったので私もついて這いました。「両手で丸木をしっかりおさえて、ごぞごぞ這うてきいよ」と言いました。両方のすねを並べるとふちに余りはほとんどありません。ザーザーと水の音が遠くに聞こえるのでかなり下まで「遠いなあ、怖いなあ」と思いましたが、祖母が前を這っているので私も一生懸命でついていきました。だいぶ渡ったように思い「まだ?」と聞くとまだまだ慌てるこたないきごぞごぞついてきたらえい」と言いました。「あ~あまだながやなかなか遠いなあ」と思いながら片方の手をそーっと前へ出し、祖母の草履の裏を触り祖母が前にいることを確かめながら這いました。「さあ着ついた、ここで終わりじゃ」と祖母が言ったので、「あー、良かった」と思わず大きな声で言いました。無事渡り終えてほんとにほっとしました。地面に立ったときしばらく足が震えていました。いたどり、タラの芽、椎茸など沢山取りお昼ご飯を食べましたが、「又あの橋を渡らんといかん」と思うといつものように美味しい昼ご飯ではありませんでした。しばらく遊んでいましたが、「さあそろそろいにじあいをしょうか」と祖母が言ったので荷物をまとめて山を下りました。ザーザーとあのいやーな水の音が聞こえ出し、「また渡らんといかん。いややなあ。」と思っていると、「さあまた頑張って這っていのう」という祖母の声とともにしっかり掴まって一生懸命で這って渡りました。「さあここで終わりじゃ」という声を聞くと「あーやっと渡り終わった。もうこれで怖いところはないきくつろいだ」と思い安心しました。後から聞いた話では、丸木橋の長さが6~7m、高さが14~15mあったそうです。その当時この橋を使って仕事に行っておられた人たちが、今でも何人かお元気でおられますので、つい最近もその話がでて「あんたのお祖母さんはえらかったねえ。あたしらあでもあの橋を渡るがは恐かったが。それにもし下へ落ちたら助けにいこうち、すっすと行けるようなところじゃなかったき。あんたを連れてよう渡ったこと。なんでも経験をさしちょっちゃろうと思ったお祖母さんは、なかなか偉かったよ」と言って話したことでした。できることならもう一度あの場所へ行って触ってみたい、恐かったけれどもう一度渡ってみたいと思うことがありますが、今では全然通ることができなくなりもうその場所へ行くことはできないそうです。
5年生の夏休みのある日、祖母が「潮がこんだり引いたりするというけんど、おまんは見えんきどればあひいちゅうもんやらわからんろう。今日はうんとようひいちゅうきどこまで行けるか自分の足で確かめてみたらえいき。はよう行こう。」と言って早速海へ行きました。「ここはドカッと深いところはないき、ちっとずつちっとずつ坂になっていちゅうき怖いところはない。岩を伝いもって前へ前へ進んでいきよ。」と祖母に言われ、私は岩を伝いながらゴトゴトと沖へ沖へ向かって行きました。途中岩の下へ手を回してみると貝がいっぱいおりました。貝は陽があたって暑くなると岩の下のほうの湿った所に、隠れているもんだなということをこの時始めて知りました。クボやマイゴをいっぱい取りました。ウニやヤドカリもおり、ウミウシにも触りましたがウミウシはヌルヌルして、とても気持ちの悪いものでした。いろんな貝を取ったり、触ったりしながらだんだん沖の方へ向かっていると、私の額のすぐ向こうの方でザーザーと波の音が聞こえます。あっ、だいぶ近いところに波があるなという感じが伝わってきました。この辺りまでくるとかなり大きな岩がありました。
しばらく遊びましたが、「そろそろ潮がこみはじめたにかあらん。」と祖母が言ったので、ごとごと丘の方へ向かいました。岩を伝いながら行っていると、ザバーン、と思いのほか大きな波がきて頭からかぶってしまい、「もっと早よういかなあいかん。どんどん潮がこんできゆう」と祖母が言いました。後ろからザーザーと波がおわえて来ているように思い、来るときとは違いなにやら気がせかれつつ丘の方へ急ぎました。途中、大きな波を頭からかぶったり、また今度もかぶるろうかと思っていると次の波は私の所まで来なかったり、また次の波は背中のあたりまでかぶったり、何回かそんなことを繰り返しながら丘へたどり着きました。潮はこみはじめると意外と早くこんでくるもんだなと思いました。
何年か後に知人とこの話をしたとき、あの時私は7、8メートル沖へ行っていたのではないかと言われました。
私の家で鶏を飼っていたので、割合早くから包丁を持たせてくれ、菜っ葉を切って鶏にやっていました。でも、鎌は使ったことがありませんでした。6年生の夏休みのことでした。祖母が畑へ草を刈りに行くときはいつも付いて行っていたので、「私にも鎌を使わして。」と言うと「鎌はいかん。内向きにまがっちゅうき、包丁とは感覚が違うき恐い。釜は使われん。」と言いました。でも草を刈る音を聞いていると、どうしても刈ってみたくて「そろそろ刈るき、一回刈らして」と言うと「ほんなら、左手で一握りばあ草を持ってその持ったところから、だいぶ下の方へ鎌を持っていてゴッシゴッシというようにゆっくり刈ってみいや。けんど一人で絶対鎌を使こうたらいかんぞよ。」と言いました。
祖母の草を刈る音はシャッシャッシャッというように、それは歯切れがよいのです。私もいつかあんな音がするように刈ってみたいなあと思っていたところ、祖母が出かけて行ったので(今のうちじゃ。)と思い一人で鎌を持って庭続きの畑へ行き、草を刈り始めました。始めのうちは言われたようにゆっくりと刈っていましたが、だんだん慣れてきてゴッシゴッシと言う感じではなく、草の切れる音が少しずつ良くなってきました。もっとチャッチャッチャッとそぐように刈ってみようと思いやってみるとなかなかきれいに刈れます。うれしくれ夢中で刈っていると、シャッと左の人差し指をそいでしまいました。
(これは困った。祖母に怒られる。)と思いながら触ってみると、人差し指の爪の少し下の辺りが外から内側に向けてだいぶ肉が厚くそがれてピロピロしながら一部引っ付いていました。(ああ、ほんでも全部のいちょらいで良かった)と思いながら、たらいに溜まっていた水で洗い、切った所を押さえていました。祖母が帰ってくるまでに血が止まってくれたらよいがと思うのですがなかなか止まりません。困ったなあと思っていると、やがて祖母が帰ってきてたらいの血に染まった水を見て「こりゃ、おまんは手を切っつろう。あれほど一人で鎌を使こうたらいかんと言うちゃあったに、どこを切ったぞ。見せてみい。」と言ったので「ここ」と言って見せると「これほど切っちょったら医者へいかにゃあいかん。全部のいちょったらおおごとじゃったけんど、こればあでもようひっついちょったもんじゃ。」と言ったので私は「医者へは行きとうないき、指薬を付けて。」と言いました。昔は指薬と言って指だけにうんと良く効くと言う膏薬がありました。膏薬をぬり包帯を巻いた上から指袋をかぶせてもらいました。何日か経って恐る恐る包帯をはずしてみると傷はきれいに引っ付いていましたが、指でコシコシッとかいてみると、他のところとはかなり感覚が違っていました。元の感覚に戻るまでに何年かかかったように思いました。
茅で手を切ったり、すねを擦りむいたり、櫨にかぶれたり、そんなことはたびたびありましたが、鎌で指を切ったことは大きな失敗でした。指の外側だったからよかったのですが指先の腹のほうを切っていたら点字を読むことができなくなっていたかもしれません。そう思うと背中がゾクゾクと寒気のする思いでした。それ以後鎌は絶対使いませんでした。
健常者の方から目が見えないお人は季節の移り変わる様子などわかりにくでしょう。特に美しい紅葉が見れなくてお気の毒に思いますと言ってくれることがあります。確かに私のように見えるということを知らない全盲生にとったら色というものは、ぜんぜんわかりませんけれども視覚的にわからなくても、人さんとの会話の中から色に対するイメージを持っています。赤は暖かそう、水色は涼しそう、白は清潔感のある色というふうに私はイメージを持っています。また、触ったり、匂ったり、音を聞いたりしながら季節の移り変わる様子を楽しんでおります。
春はウグイスが鳴き、草木が芽吹き、桜が咲き、シイの花、栗の花が咲き、なんだかしっとりと全体に甘~い香りが漂い、特に春風は艶やかで艶めかしい感じです。浜木綿の花が匂いだすと、あー夏が来たなあと思い夕暮れにおしろい花が匂いだすと昼間の暑さを忘れさせてくれます。キチキチキチとモズが高鳴きを始め、草むらで鈴虫や松虫が鳴き始めると、いよいよ秋になったなあと思い、カサカサと音をたてて落ち葉が飛ぶようになるとなんだかひっそりと寂しくなります。
私はよく大津の方へ出かけることがありますが、春夏にはぜんぜん聞こえなかった汽車の音が北風が吹き始めると、手の届くような近いところを走っているように聞こえだします。その汽車音が聞こえ出すと、あー今年もまた冬が来たんだなあと思うようになります。また北風にヒューヒューと電線の鳴る音も私が冬を感じる音のひとつです。
明治19年生まれの祖母でしたが、いつまでも泣いて悔やんでおったらいかん。とにかく思いを変えんといかんということで、私をどんどん人中へ連れ出し、隠すことなく「この子は、結核菌に視神経をくわれたというような理屈で眼が見えんようになり、足も悪くなってしもうた。早うから歩いたり、喋ったりしたがも特別にきれいなかったがも、全部結核菌の働きじゃったということじゃ。この子の血の色は紅を溶いたような真っ赤なきれいな血じゃったが、病気が治るにつれてちっと黒がかった普通の血の色になってきた。結核菌というものは、えらい恐ろしいものじゃ。」と祖母がたびたび人さんに話しているのを聞きました。
母や祖母からは、これをこうしなさい、ああしなさいと言われるのではなく、日々の体験の積み重ねの中で身を持って憶えさせていってくれたことは、今、人さんと話をするときにも、2人の娘を育てて来たときにもずいぶん役に立ちました。
祖母や母がくじけることなく、明るく育ててくれたことに感謝しております。
このように触ったり匂ったり聞いたりしながらいろんな体験をさせてもらってきましたが、私のような全盲生にとって何が夢であったか、それは普通の字を読みたい、普通の字を書きたい、これはもうほんとに長年の夢でした。
元気いきがい課の方から別府さんを紹介していただき、昨年の9月半ばから音声のパソコンを習い始めました。別府さんが「パソコンにはいっぱいキーがあるでしょう。どこにどんなキーがあるかわかりにくいき、よく使うキーに手で触って判るように点字のシールを貼りましょう。」と言って印をつけました。最初は腫れ物に触るような感じで「ここを押してもかまいませんか?ほんとに押してもかまんぜねえ。」と何回も聞きながら恐る恐るキーへ指をもっていっていました。別府さんは「大丈夫、大丈夫。少々押し間違えても壊れる物じゃないし、私がちゃんと見ゆうき心配ないよ。」と優しい声で言ってくださり、手を取りながら、それはそれは優しく気長く教えてくださいました。
「だいぶキーの位置も覚えたき、そろそろ読ませる練習に入りましょう。」と言って読ませる方法を教えてくださいました。そのうち「だいぶ読ませる方法も覚えたき、次に書く練習をしましょう。」と言ってワープロの勉強始め、少しずつ書けるようになりました。
長年の夢だったのが夢ではなく実現したのです。そのときの喜びはほんとに何物にもかえがたい喜びでした。
まだまだ、これから教えていただきたいことがいっぱいあります。インターネットができるようになる日を楽しみに、頑張りたいと思います。