専門性を担保するもの

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シンポジュームで話をしている吉野の顔 シンポジストの人達
(左の写真はシンポジュームで話す私 右はシンポジスト全員)

 この9月22日から3日間大阪の国際交流センターで日本ロービジョン学会と視覚障害リハビリテーション研究発表大会の合同学会に参加し、その中で「地域で働く視覚障害者生活訓練指導員の現状と課題」というシンポジュームの座長をさせていただいた。

 このシンポジュームを企画した私の思いは、視覚障害リハビリテーションの専門家として「視覚障害者生活訓練指導員」には高い専門性が要求される、その専門性とは何かについて、会場にいる様々な職種の方達に考えるきっかけを作りたかったということである。

 そしてシンポの中のやりとりで「たとえば生活訓練はなぜ生活技術に長けている主婦などが指導するのではだめで、生活訓練指導員が指導する必要があるのか」という問を出して、専門性のエッセンスを考えて見たかったのである。

 私のコーディネートの悪さや時間の関係で、「専門性」の本質について、あまり上手く会場に伝えられなかった。

 そんなこともあり、私は頭の中で無意識にそのことを考え続けていたようである。今朝起きたら突然に、これから書くようなことが思い浮かんで、どうしても今、その感覚というかアイディアが逃げてしまわない内に書きたくなった。

 視覚障害者生活訓練指導員の専門性の本質は「視覚障害というものを深く深く理解しようとする追求そのもの」と「視覚障害のある世界を味わいおもしろがること」そして、「視覚障害があって困り果てている方達に、様々な解決策を提示しながら、視覚障害があっても生きられる、時には楽しく生きられる」ということを伝えていくことなのではないかと考えた。言葉は適当でないかもしれないが。

 この視覚障害を深く理解したり、時にはそれに絶望したり、面白いなと思ったりするきっかけはどこなのかなというと、非常に基礎的な所では、その方達の持っている人間性というか、環境に裏打ちされた何か「志望動機」であろうが、それを深めて発展させて行くのは、日本ライトハウスでも国リハの養成コースでも行われている長い長い「アイマスク体験」なのかなと考えた。
 私のつたない知識では、日本ライトハウスの養成コースの歩行訓練だけでもアイマスクをしての基礎的な訓練が180時間以上だったと認識している。
 この過程の中で、訓練指導員を志す人達は、中途視覚障害(全盲)者の気持ちを味わう。その中で、絶望感も味わうが、視覚以外の感覚を使い手がかりを探すことができれば「視覚障害があっても歩ける」という確信を持てるようになって行くのだろう。

 また、指導者養成のコースであるから、指導者の立場になって客観的に「視覚障害」というものを分析し、解決策を見いだすトレーニングを受け続ける。ここにまず専門性を見る一つの鍵があるのだろうと思う。

 次に「視覚障害」という世界をおもしろがる好奇心がとても大切なのだろうと考えた。ロービジョンを持つ私は、何回も忘れられない体験をしている。

 その一つは、私が日本福祉大時代に出会った恩師窪田先生に点字を教えたとき、点字しか習っていなかった私が「ひらがな」ばかりで書いたレポートや手紙を先生に見ていただいた時の体験だ。
 皆さんご存じのように点字というのは漢字のような表意文字ではなくて、発音をつづる「表音文字」だ。ひらがなも表音文字である。
 窪田先生は、私の書いたひらがなばかりの文章を見て「平安時代の清少納言の枕草子や源氏物語」に共通する独特のリズムがあって、これはこれで一つの文化」だとおっしゃった。

 私の中では点字もひらがなだけの文章も、「目が見えなくて点字しか使えないからやむなく使っている文字」、一般には実用性も低く、通じないが仕方ないから使っている文字という一種の劣等感のようなものがあったのだが、この先生の言葉で、点字の文化と自分の体験してきた視覚障害の世界について改めて見直し、誇りのようなものを持てるようになったのである。
 窪田先生が私に接するときは、いつも私のロービジョンの世界を一緒に味わって、その良いところ、その辛さも一緒に体験してくださっているのだと感じている。
 こうして、先生とのおつきあいは40年を超えている。

 長くなったけれどもう一つだけ、函館視力障害者センターに勤めておられる山田伸也さんの「ロービジョンケア講座」を受けた時、単眼鏡をはじめ補助具の使い方を説明しながら「ただ道具を紹介して渡すだけではなくて、皆さんも実際使ってみて試してみてください。なかなか面白い見え方や新しい世界が発見できますよ」といわれたのを鮮明に覚えている。
 つまり山田さんもロービジョン者の世界を楽しむ心を持っていているのだ。
 
 上に書いたことを一言でいえば、視覚障害というものを「目が見えない見えづらくてハンディがある」という表面的なとらえ方をするのではなくて、「視覚障害を深く理解し、その世界に興味を持ち続ける」ということなのであろうか。

 視覚障害者生活訓練指導員の専門性の根本にこの視覚障害を深く理解しようとする絶え間ない努力と体験と客観性に裏打ちさせた「視覚障害があっても生きていけるし、障害のない人と同じように人生には辛いこともあるし楽しいこともある」という確信なのではないかと思った。

 あらら、午前9時になってしまった。いそいで支度をして大学に行かないと、今日は徹夜しても間に合わないほどの仕事が待っているのだ。
 でも、どうしても書きたくて、言葉のあふれるままに書いたので、まとまりがなくなってしまったし、かっこの中の言葉も、私が出会った方達の正確な言葉ではないことをお断りしておきたい。

 視覚障害者生活訓練指導員の専門性って何だろう。「英語がしゃべれるからといって英語の教員にはなれない、教員になるためには教員としての専門性が必要だ」といえば、世間の人は皆納得する。それと同じように「生活技術があるからといって視覚障害者の日常生活訓練はできない、専門性が必要」だというこの専門性の中身をもっともっと追求して行きたいと思っている。

 とにかく仕事に行かなければ。読んでくださった皆様、付き合ってくださってありがとうございました。