今日は完全休養日

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これこそノーマライゼーション

  昨日、仕事仲間の視覚障害者生活訓練指導員と、キムチ鍋をつつきながら四方山話をしました。明日は休日です、気がついたら午後10時になっているほど、話が弾みました。

  その人曰く「吉野さんのブログ、視覚障害のある方が、パソコンの音声ソフトを使ってインターネットから情報を得ることのトレーニングに使っています」とのこと。「音声でのアクセスビリティーが良いので、使いやすい」とのことでした。
  そうか、良かった、このプログをデザインしてくださった方が、いろいろな所でアクセスビリティーに気を使ってくださったことにまず感謝をしました。だって、これでも視覚障害者にとって住みやすい社会をつくろうと言う活動をしている私ですから、まず、ほっとしました。

  「でも、見た目はちょっと間延びした感じがしない。見だしの所を1行開けると、随分行と行の間が空いてしまうし、目で見るとかっこよくないね」と私が言うと
  「文字が相当大きいので、文章全体が画面に入りきらないし、しょっちゅうマウスでスクロールしないといけなくて面倒ですね」と、相づち。

  「それと、論文などを掲載しようと思ったとき、いちいちテキストデータを打ち込んで、図や表を整え直したりすると、面倒だしかっこわるいし、PDFファイル形式(雑誌などをそのまま、画像などの形で掲載するやり方)で掲載したら楽なのだけれど」と私。
  「それはやめてくださいね。PDFは、すべての音声対応ソフトで読めるわけではないし、視覚障害のある人からは批判も強い」と相手。

  「そうね。でもアクセスビリティーを高めようとすると、面倒だし、かっこも良くないね。見栄えという意味では、若い人などには受けないしね」と私が言うと。
  「でも、普通に見えてる人は、面倒だけど、マウスでスクロールしたり、見るためにいろいろな手段が使えますよね。でも、音声しか使えない人には、この形が良いわけで、その方法しか利用できない人に会わせることが重要ですよね」と相手が言った。

  「普通に目が見える人にとって、ちょっと不便だったり、手間がかかったり、かっこわるくても、それしか利用できない人に合わせる」。そうだこれがノーマライゼーションと言う考え方が現実の形となった社会なのだ。と私は、気づいた。
  ノーマライゼーションと言うのは、「こども・働き盛りの人たち、高齢者・障害者の誰もが、住みやすい社会を目指すこと」であるから、そうなると、当然のことながら、一番物事にアクセスしにくい人が、アクセスできるようにすることなのだ。

  今朝目が覚めて、なぜか一番最初に浮かんだ考えがこんなことだった。ノーマライゼーションの実現には、手間がかかり、みんな少しずつ我慢しないといけないのだ。なぜか妙に納得してしまった。

私もばりばりの団塊の世代

  休日の朝は、布団の中でもこもことしているのが私は、たまらなく好きだ。もこもこしながら、枕元のテレビのスイッチを入れると、NHKが休日の番組編成で、9月23日に嬬恋で行われた、吉田拓郎を中心にした9時間コンサートの特集をやっていた。
  何となく見ている内に、どんどんその世界に引き込まれてしまった。

  吉田やかぐや姫の歌を聴きながら、なぜか涙も出てきた。
  初めての点字受験生として、1969年に大学を受けたとき、「トイレに一人で行ける」などと、学力以前の質問をされて、屈辱的な気分になったこと。
  東京都に障害者雇用枠で就職したが、最初から仕事をさせるつもりのない上司の下で「窓際族」となって、「私が今辞めてしまったら、障害者と言うのはこんなものだと言われてしまうから、3年はがんばらなきゃ」と毎日思いながら出勤した何年か。
  どうしてもこのまま一生を終われないと思って、安定した東京都を辞めて、40歳で大学院に進学したこと。歌を聴きながら、そんなことが次々に頭に浮かんで来る。
  
 画面に映っている人たちも、みんな私と同年配、髪に白いものが混じって、ちょっと皮膚がたるんでいて。でもみんな楽しそうだ。
  私も、ばりばりの団塊の世代。「意固地でつきあいにくい」と他の世代の人たちからは言われながら、でも結構がんばって来たなと思っている私である。

  本当は、今日やらなければならないことが一杯あるのだが、今日は、すてきな完全休養日になりました。
  所で、コンピューターのことについての説明これで間違ってないだろうか。また、吉田拓郎はこれで良かったかしら。コンピューターはただのユーザーだし、漢字には自信がないので、もし変なことを書いていたら、どなたか指摘してください。