触ること聞くことそして見ることの楽しみ

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2002年作成

 私が盲学校で教育を受けた時代は、弱視教育などと言うものはなく、誰でも指で触って読む点字を学んだ。私ぐらい見えているのに、点字を眼でなく人差し指で触って、相当の早さで読めるのは大変珍しいことらしい。視覚の方が触覚よりずっと優れた道具だから、私くらい見えていると、普通点字も眼で見てしまうからなのだ。これも6歳の時から、盲学校で触ることを鍛えられたおかげなのだと思う。
 昔の冬は寒かった。気候も今より寒かったし、木造の家は、すきま風が通るし。そんなとき、暖かいこたつの中にかじかむ手と点字で書かれたすてきな冒険小説なんかを入れて、ぬくぬくと読む。寝る前に明かりを消した部屋の布団の中で、指先から流れ出すすてきな言葉に空想をたくましくすることも出来る。人差し指にすっぽり入ってしまう小さな6点の組み合わせにさわることが、私を別世界に誘ってくれる。
こんなすばらしい文字点字だが、高齢の中途視覚障害者が増えたせいか、残念ながら現在実用的に使える視覚障害者は3万人くらいと推計され、一般社会では、やっぱり目で見る活字が圧倒的に普及している。それで私も、大学進学後は、無理していわゆる普通字に切りかえざるを得なくなって、ここ30年触る読書の楽しみからは遠ざかってしまっている。
 ところで、この触覚の楽しみというのは、何も点字を読むことにとどまらない。

 デパートで衣類を買う時の楽しみは、触感を味わうことだ。シルクのしなやかさ、混紡していない綿や麻の何とも言えないさらっとした感じ。冬場は特に最高。毛足の長い毛皮のあの毛並みとつやの触感。つるっと冷ややかな皮、水蜜の表面を思わせるようなスエードやベルベットのさわり心地。ウールやカシミヤのあの暖かくしなやかな風合い。ラベルの文字は小さくて見えないけれど、ウールや麻や綿などの天然繊維に化学繊維が混紡されていると、風合いが微妙に損なわれてがっかり。天然素材だけでなく何らかの化学繊維が混紡された生地の方が、鮮やかに染色できるようで、見た目はきれいなのだが、触ってみると、その風合いが大抵は気に入らなくて、私は、天然素材の生地でつくった衣類ばかり買い込む羽目になる。実は、天然繊維100は、値段も高いし、生地としても弱いのだけれど。とにかく私の衣類選びは、色やデザインよりもさわり心地優先である。所で、最近、買い物が少しつまらなくなっているのだ。商品管理のためか、衣類がみんなビニール袋に入って売り場に並んでいて、触感が楽しむ機会が減っているのがその理由である。

 繊維の混紡率の判定が生地に触るとわかるように、見ているよりも触った方が物事の真実がわかることってたくさんあると思う。あちこちに飾ってあるお花や鉢植えの観葉植物、このごろ本物そっくりの作り物が多くなった。私は、触りたがりやで良く花びらや葉っぱに振れてみる、と、感触が違う。作り物はどんなに精巧に出来ていても、花も葉も堅くてごわっとした紙やブラスチック独特の感じだ。本物の植物は、花びらはビロードのようで、葉は、少しひやっとしてつるっとして、後は植物の種類によって本当に千差万別の感触が味わえるのである。

 世の中触ってはいけないものと言うのも多いけれど、どうしても誘惑に駆られて触ることもある。信号待ちなどで、私の目の前に立っている女性の長い髪の毛。混雑に紛れて触れたようなふりをしてそっと手を出してみる。まぎれもない天然繊維であるが、堅いもの柔らかいもの、しなやかなもの、一人一人本当に風合いが違う。

 ある有名なガラス工芸作品ばかりを展示している美術館で、透明や半透明、様々な色と形のガラス彫刻を見ていて、「触れるべからず」を無視して触ってみたことがある。磨りガラスでざらっとしているように見える彫刻の表面が何故かつるっとなめらかだったり、これがガラスとは思えないほどでこぼこでざらざらと言うのもあって、見ると触るとでは大違いである。

 ところで、そのガラス彫刻「たたいたらどんな音がするのかな」と、触るついでにちょっとたたいて見ると、これも予想とは違う音。図体が大きくて鈍い音かと思ったのが、キーンと高い音を出したり、小さいから高い音が出るのかと思えば、何故か低い音が出たり。実は、触覚とともに聴覚もなかなかおもしろい感覚で、私が弱視のせいか、それともこれも盲学校で鍛えられたせいなのか、私は聞くことでも視覚障害のない人より楽しんでいるらしい。

 高知女子大池キャンパスは、緑の山を背景にして薄茶の建物が美しく、リゾート気分が味わえるような外観で、来訪者は、皆この風景に感激するのであるが、私がもっとも感銘を受けたのは、山から聞こえてくるウグイスの鳴き声だった。春も初めのころだからか、泣き方がまだ下手なウグイスは、毎朝出勤する私を歓迎するように鳴いてくれる。出張から帰って久しぶりに校内に入ると、いつも聞こえてくる鳴き声に「帰ってきたな」とほっとするのである。ウグイスの鳴き方だんだんうまくなって来ると、池キャンパスは、初夏になり、暑い夏が迫ってくる。ちなみに、高知の自然の豊かさに圧倒されたのは、6月頃に鳴く蛙の大合唱と、夏の迫ってくるような蝉時雨。両者とも東京ではとっくに聞かれなくなった音で、とにかく耳をふさぎたくなるようだ。耳をふさぎたくなると言えば、秋の夜長の虫の声。なんだか無性に私の心を寂しくしてしまうが、この虫の鳴き声も高知では半端ではない。   

 実は、視覚障害のない人たちも、私と同じように聞こえているのだが、視覚に頼りすぎて生活しているので、耳からの情報にあまり注意を払わないようで「ウグイス鳴いてましたっけ」などはしょっちゅうのことである。また、触覚には、ほとんど関心を払っていないように見える。

ところで、晴れた高知の夜空には、東京のそれより一回り大きく明るい月が浮かんでいる(きっとこれも自然の豊かさ、空気が澄んでいるからだろうが)この月を眺めたとき、春の訪れとともに、木々に柔らかそうな薄緑の芽が吹き出し、遠く五台山に桜のピンク色の雲がかかり、初夏になると、木々が厚い緑の毛布のような葉っぱに覆われて行くのを出勤途中の車窓から見るとき、フグの臼づくりを通して絵皿の見事な絵がボーと透けて見えるのをながめるとき、機上から地球のしわのような四国山脈の険しい峰を見るとき、水中を泳ぐモンゴウイカの半透明な円盤に出会ったり、水面すれすれを通り過ぎるマンタの陰を目でとらえたとき、こんな瞬間は見えていることのすばらしさに体が震えるような思いがする。

 私くらい見えていると通常は、不十分ながら視覚的な人間なのだそうだ。その私に、触って感じ味わう楽しさ、聞いて想像し、またいろいろな情報を得ることのすばらしさを知らず知らずのうちに体得させてくれたのは、点字での教育を初めとする盲学校での12年間の教育のおかげであり、そしてまた、沢山の視覚障害を持つ友人達との日常的ふれあいからであろう。相当に見えている弱視の私は、現在なら普通校での統合教育か盲学校に通ったとしても、視覚を中心とした弱視教育を受けることになったはずである。「もっと遅く生まれていたら」私は、普通字での教育を受けられなかったことを良くぼやいていたが、このように考えて見ると、盲学校で教育を受けたことは決して無駄ではなく、私の世界を広げてくれたのではないかと思えてくるのである。物事多面的に見ないといけないかも。