研究室から—研究室から飛び出して地域貢献が私の使命—

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この記事は、2006年3月号東京ヘレンケラー協会発行の点字誌「点字ジャーナル」への登載記事

 高知という所がどこかご存じですか? 東京から飛行機で1時間10分ほど、四国の南半分を占める大きな県です。南側には太平洋、北側には四国山脈が立ちふさがり、今こそ瀬戸大橋などで、本土と陸続きのようになっていますが、1967年に高知空港が開港するまでは、本土に渡るためには船しかないと言う陸の孤島でした。県土の80%が中山間地域、産業は農業・漁業などと観光、県民所得は、日本で最下位を争い、超高齢化超少子化の進んだ、社会福祉的に言えば、たくさんの問題を抱えた県です。

 矯正視力0.1のロービジョン(弱視)の私は、40歳の時一念発起して日本女子大大学院で福祉を学び直し、東京都立大学人文学部社会福祉学科の助手として5年ほど勤務した頃、恩師から「今度県立高知女子大学に新しく社会福祉学部ができることになって、そこの学部長になる方が、『社会福祉学部には、学生の指導上障害を持った教員が一人いた方が良いと思うから、誰か紹介して欲しい』と言っているから、あなた行ってみない」と誘ってくださいました。助手というポストは、研究者になる修行をする立場で、おおむね3年ほどすれば、他の大学に移り講師となるのが慣例なのですが、なにせ視覚障害のある私には、常勤の講師の口などあるはずもなく、「どうしようか」と思っていた時のお誘いでしたし、南国高知は気候も温暖で、足にも障害を抱える私には住みやすいだろうし、それに県立大学で、1学年40名以下の少人数教育を売りにしている所なので、事務処理の苦手な私でもつとまると思い、応募させていただきました。そして、1999年4月に、私にとっては未知の土地高知に赴任して来ました。

 私を雇ってくださった津曲学部長は、障害児教育・福祉の分野で多くの業績を残しておられる方でしたから、県の障害福祉行政に関わる様々な審議会などの委員の依頼が来ました。そういう依頼が来ると、津曲先生は「あんたやってみてごらん」と私にまわしてくださって、私も自分は「障害者もチャンスを与えられれば、ちゃんとした仕事ができる」ということを身をもって証明しようと、積極的に仕事を受けさせていただきました。

 所で、私が、大学を卒業して最初に勤めた名古屋ライトハウスあけの星声の図書館(現情報文化センター)で、人生の半ばで失明したり生活に困るほど見えづらくなった方たちの相談に乗る仕事をさせていただいて、その方たちが「見えない見えづらくなったことで精神的にも社会的にも大きなダメッジを追い、それを乗り越える方法についての何の情報もないまま絶望に打ちひしがれている姿」を見て、強いショックを受け、そのころようやく普及しはじめた視覚障害リハビリテーションを学び、その普及とシステム作りを自分のライフワークにしたいと強く思うようになりました。残念ながら、高知に来るまで中途視覚障害者の方たちに接したり、視覚障害リハのことを学ぶチャンスもないままに時が過ぎてしまっていました。高知に赴任して2ヶ月ほどたった頃でしょうか。「風の噂で日本ライトハウスの養成を終え、視覚障害生活訓練指導員の認定資格を取得して高知に帰って来ている人がいる」ことを聞き、会って話をしてみる気になりました。
 「せっかく専門知識を学んで来たのに、視覚障害者の生活訓練の受容がないから、県の盲ろう福祉会館の管理事務を臨時でやっているんです。毎日電球が切れたとか、何とか」「すぐそばに盲学校があって、そこの生徒さんが、短い白杖を持って、あちこちぶつかって歩いてるのを見ていても何もできないんです」と初対面の彼女は涙ながらに私に訴えました。超高齢化の進む高知県、中途視覚障害者がいないわけはありません。「見えなくなったら点字を習って、白い杖での歩行」それが一般の人達の視覚障害リハのイメージでした。それでは高齢の中途視覚障害者が多い高知県です「今更」になってしまいます。

 ニーズがなければ新しい福祉サービスはできません。だからまずニーズの掘り起こしをしなければなりません。私は、あらゆる機会に「中途視覚障害者の置かれている現状」や「日常生活訓練の有効性」について話し、若くてかわいい視覚障害者生活訓練指導員をマスコミに売り込みました。高知のような田舎では大学の教員というのは、結構権威があって、意見を聞いてくれますし、まして私は視覚障害当事者ですから、その両方の立場を利用して、若い彼女の代弁をし、視覚障害リハの必要性と有用性を訴えました。
 最初、音声時計や拡大読書器など、視覚障害者に便利な機器を紹介したくても、何もなかったし、彼女に生活訓練指導員の仕事に専念してもらいたくても人件費がない状態でした。幸いなことに高知県には1997年に橋本知事が提唱した「県職員提案事業」というのがありました。これは、県の職員が、県の行政施策に対して提案を行い、良い提案であると知事が判断すると予算をつけてもらえるという画期的なものでしたので、そこに毎年提案をして、いくつか採択していただき「盲学校に常設の視覚障害者用機器展示室(ルミエールサロン)を設けたり、訓練指導員の人件費を捻出したりすることができました。
 視覚障害リハに関する講演会や福祉機器展示、地域をまわる巡回相談など、私の活動は研究室の外で行われることが多く、学生の教育については、手抜きはしていないという自負がありますが、いわゆる研究者としては、ちょっと問題かもしれないと思っています。でも、今地方の大学では、教員の地域貢献活動が重要であり、評価もされていますから、これからも、教育と地域貢献活動に重点をおいて、高知県の障害者の福祉に少しでも貢献できるよう活動を続けて行きたいと思っています。