視覚障害リハビリテーションを理解しよう(2)

「視覚障害」294号の表紙

-高知での視覚障害リハシステムづくり活動から学んだこと-

はじめに

1976(昭和51)年、東京に戻りたい、親元で暮らしたいという思いに勝てず、名古屋ライトハウスあけの星声の図書館を退職して東京に戻った私は、ちょうどその頃東京都で始まった障害者雇用枠での公務員試験を受験し、幸い合格して1977年から11年間東京都児童相談センター(中央児童相談所)で電話相談や障害児施設への措置業務を担当しました。
 40歳になった時、もう少し深く福祉を学び直したいという気持ちから都を退職し、日本女子大の大学院に入り、終了後都立大(現在の首都大)人文学部社会福祉学科助手になりました。そこで7年半働いた後、社会福祉学部を新設するに際して「障害を持った教員が一人いたら学生の教育に良い」ということでお誘いがあり、1999年(平成11)高知女子大学社会福祉学部に赴任しました。
 この23年間の視覚障害者の世界とは全く縁のない世界で生きた経験は、すべて私の人生の肥やしとなって、私自身を成長させてくれましたが、その間、ライフワークにすると心に誓った「視覚障害リハビリテーション」に携わるチャンスはほとんどありませんでした。
 そんな私を「視覚障害リハビリテーション」に再び駆り立てたのは、私の赴任と同時期に「視覚障害者生活訓練指導員(歩行訓練士の呼び方の方がなじみ深いでしょうか)」の認定資格を得て高知に戻ってきた女性との運命的な出会いでした。そこで、今回と次回は、高知での活動の中で経験したことを中心に書きたいと思います。

 1 高知の現状と視覚障害者に対するサービスの状況

 高知県は、面積の80パーセント以上が山間地域で、人が住めません。私が赴任した当時、県には約82万人が住んでいましたが、少子化・超高齢化は、我が国でトップクラスのスピードで進行していました。主な産業は、農業・漁業と観光で、県民の所得水準は、沖縄県や北海道と最下位争いをしている状態でした。山間地域が多く、人口密度が低いということもあり、高知には公共交通機関がほとんどなく、車がないと買い物などの日常生活にも支障を来すという、車の運転には無縁の視覚障害者に取っては、非常に暮らしにくい環境でした。
高知県に住んでいる視覚障害者は、私の赴任した頃は、手帳所持者が4000人(2000年3月現在)で、そのうちの約1000人が高知市内に在住していました。18歳以下の児童は26人と少なく、70パーセント以上が65歳を越える高齢視覚障害者でした。我が国では、いつ障害者になったかという調査はほとんどおこなわれていないので、正確には分からないのですが、障害の原因から類推して、70~80パーセントが、人生半ばで視覚障害となった中途視覚障害者であると考えられます。現在手帳所持者は3000人台に減っていますが、超少子化・超高齢化という傾向は変わっていません。
 視覚障害者に対する手帳の判定や相談業務は、県立療育福祉センター相談班(身体障害者更生相談所と知的障害者更生相談所の機能を併せ持つ)がおこなっていますが、眼科医が雇用されていないこと、判定や相談のために当事者が遠い所を通ってくることができないという理由で、判定業務は、地域の指定医に委託され、相談班(県の行政窓口)で直接視覚障害者の現状を把握する機会はほとんどありませんでした。
 視覚障害者の数は、とても少ないので、市町村役場や福祉事務所等の相談窓口に訪れる数もきわめて少ないです。そのため、福祉事務所や市町村役場の障害福祉担当の方も、担当機関中に視覚障害に関する相談を受けることがほとんどなく、従って、視覚障害者に対するサービスの内容についても勉強するチャンスがほとんどない状態でした。
 視覚障害者に対する専門機関は、県立盲学校、高知市の市民図書館の中に点字図書館があり、盲人ホームが1カ所、盲老人ホームが県内に1カ所あるだけでした。
 また、専門機関に対し、一般の方がどのようなイメージを持っていたかを、私が相談に乗った方たちの話から引用すると、こんな風でした。
 「盲学校は暗くて、相談に行ったら最後入れられてしまうところ」(あるロービジョン児の親御さんに盲学校で専門的なアドバイスを受けるように勧めた時にいわれた言葉)。
 「点字図書館って、点字の本しかないんでしょう。この年になって点字なんか読めるようになるわけがないから、私とは関係ない」(本が読めないのがつらいと嘆く高齢の方に点字図書館を紹介した時の言葉)
 

2「視覚リハに対するニーズ」の顕在化が必須

   

 「見えない見えにくい状態になって」困り果てて福祉事務所や役場の窓口に相談に行くと、窓口では身体障害者手帳の取得を進め、普通の字が読めなくなっている方たちに「福祉のしおり」をわたして、通り一遍の制度の説明をし、視覚障害者のシンボルである「白い杖」を支給し、相談に来た方が壮年期までの方ならば「盲学校に行ってあんま・梁・灸の免許取得をしたらどうか」と進める。これが当時の高知でおこなわれていた視覚障害者向け福祉サービスのすべてでした。
 先ほど述べたように、視覚障害者の多くが高齢になってからの中途視覚障害者で「今更盲学校であんまを勉強する必要もない」「この年で点字など覚えられるはずがない」、「白い杖など恥ずかしくて持つこともいや」という時に、上記のような窓口での対応をしていたら、「視覚リハに対するニーズ」は出てこなくて当然のことです。
 ニーズがないのだから、サービスもなく、1999年当時の「視覚障害者自立支援事業」の県予算が年間20万円という状況でした。 
このような中で、「視覚障害者生活訓練指導員」の認定資格を取得して地元で視覚障害リハの仕事に携わることに希望を持って戻って来た女性に、訓練に関わる仕事がほとんどありませんでした。
 初めて彼女に会った時「訓練の仕事ができないのなら高知を離れて、その仕事ができるところに行く」といわれ、私は、この貴重な専門家を高知に引き留めるために、とにかく潜在化している視覚障害リハのニーズを顕在化させることが急務だと思いました。
 私は、視覚障害者の相談に乗ることはできますし、制度の説明や心のケアをする自信はありましたが、実際に歩行訓練や日常生活訓練をする能力はありません。サービスがない相談業務などをいくらやっても、視覚障害リハは普及しません。だって、利用者は単に話など聞いてもらってもそれだけでは、問題はなにも解決しないからです。とにかくこの専門家が高知で仕事をしてやりがいがあると思わせるシステムを作ることが、同時に高知の視覚障害者の福祉の向上につながると確信しました。
 幸いなことに、訓練指導員の彼女は、情熱的で若く、何というか花のある方でしたから、「高知で最初の視覚障害者生活訓練指導員」という形で、地元のマスコミに取り上げてもらえました。新聞やラジオに取り上げてもらう度に「視覚障害者用便利グッズの紹介」をしたり、録音図書の話をしたりして、「見えない見えにくいことで困っている時は、気軽にご相談を」と呼びかけました。
 また、つてを頼って、すでに視覚障害リハが普及している地域から専門家を呼び講演会を開いたり、地元で長年ロービジョンケアに力を入れているめがね屋さんに協力していただいて、機器展示をしたりと思いつくだけの啓発活動をおこないました。

3 盲学校に視覚障害者用機器展示室ルミエールサロン開設

     当時の高知県知事橋本大二郎氏が県職員提案事業というのをおこなっていました。これは、県職員が県行政を良くするための企画提案をすると、それを知事が直接ヒヤリングして、「これは良い」と判定したものに予算をつけるというものでした。一度知事が予算をつけたら、担当箇所がその事業をやらなければならないというのも魅力でした。  当時、相談に来た当事者に便利グッズを紹介したくても、訓練指導員が自費で買ってきた音声時計一つと白杖が一本あるきりでしたし、訓練指導員の人件費も出ない状態でした。そこで、視覚障害リハサービスの必要性を理解してくれた県障害福祉課の担当者と当時の盲学校長と企画案を練って、この職員提案事業に応募することにしました。  視覚障害リハについてほとんどなにも知らない当事者や家族を対象にし、しかも高齢の当事者と貧しい中その当事者を支える家族が利用しやすいシステムを作ることが視覚リハに対するニーズを顕在化させるポイントだとみんなで話し合って、こんな原則を決めて提案しました。 (1)福祉と教育との連嶺を大事にする。盲学校の中に機器展示室を置いて、そこを見てもらうことを通して、自然に盲学校がどんなところか知ってもらう。  (2)相談に来るのを待っていてはだめ、こちらから出ていく。日常生活訓練などを必要としている方の希望に従って、自宅に伺って相談や実際の訓練をおこなう(サービスのデリバリー)、また各地でおこなわれる福祉祭りなどに出張し便利グッズの展示をおこなうと共に、当事者家族の相談に乗る。  (3)便利グッズの紹介は、視覚障害リハビリサービスへの導入口。専門家がじっくりと話を聞きながら、当事者一人一人に合った機器を紹介すると共に、安心して次にやりたいこと、困っていることを話してもらえるようにする。  (4)機器展示室を利用して、行政関係者、福祉関係者、介護スタッフのための講習会をおこない、視覚障害というものに対する理解を深める。  (5)機器展示室をきちんと運営し、デリバリーサービスをおこない、研修活動をおこなうために視覚障害リハの専門家が常駐する必要がある。  などの理論付けをした上で、職員提案事業に応募しました。  高知県の地理的条件に詳しく、視覚障害者の実情を良く理解し、予算の執行をおこなうプロでもある県障害福祉課の担当者と基本的なリハビリテーションを終えてから職業教育をおこなうべきだと考えておられた盲学校長と、実際にサービスを提供する訓練指導員が、練りに練った企画だったということが幸いして、職員提案事業が採択され、2002年に盲学校の中に「ルミエールサロン」という県の障害福祉課が所管する視覚障害者用機器展示室が開設され、視覚障害者生活訓練指導員が常勤化されることになったのです。

4 システムづくり活動から学んだこと

ルミエールサロン開設から11年が過ぎようとしています。毎年「サロン」への来場者は400人近くになり、出張機器展示は年平均15回以上、相談・訓練件数が順調に伸びる中、視覚障害生活訓練指導員も県担当が2名、高知市の担当が2名と計4名になりました。
 このように利用者が増えて来たのは、「待たずに出て行くサービスのデリバリーシステム」の効果だと考えます。視覚障害は移動と情報入手の障害です。まして高知のように高齢視覚障害が多く、視覚障害リハサービスの効果なども知られていないところでは、たとえルミエールサロンのようなサービスができても、自分たちからその情報を取得して、訪ねてくるということを期待することはできません。だから出て行ってこちらから情報を提供し、サービスを使ってもらうしかないのです。まず、この考え方が正しかったということが明らかになったのです。
 それから、職員提案事業をシステムづくりに生かしたことによって、行政担当者と共に考え、共にシステムを企画することの大切さを学びました。ある行政担当者が「この予算を財務に納得させるために『なぜこのサーズかが必要なのか』を私たち視覚リハの素人が納得するように説明して欲しい」「私たちが納得しないと、財務を説得できない」といわれたことがあります。その方は、とにかく熱心でした。必要性を分かろうとしてくれました。ほとんどの担当者は誠実で、視覚障害者にとって良いことをしようと考えてくれているのですが、その手段を知らないのです。だから私たち専門家が、素人である行政担当者に分かりやすく説明し、理解してもらうことが大切だと気づきました。「全く公務員ていうのは頭が固くて、ちっとも私たちの言い分を分かってくれない」というように、公務員を的扱いするような考え方は間違っていて、一緒に視覚障害者の福祉のために努力する仲間として考えるべきなのだと気づきました。

 次回は、デリバリーサービスで、いったい何をして来たのか、そのことで視覚障害者の福祉の向上にどのように役立ったのかなどを具体的な活動事例を通して書いて行きたいと思います。