視覚障害リハビリテーションを理解しよう(番外編)

雑誌「視覚障害」293号の表紙写真

はじめに

 1ヶ月などというのは、瞬きする内に過ぎてしまうような気がするのは、年を取ったせいなのでしょうか。
 先月から雑誌「視覚障害」に「視覚障害リハビリテーションを理解しよう」という連続記事を書かせていただいていますが、その10月号が出ました。
 今回は、「番外編」として、秋田県立盲学校を訪問した時のことを、まとめて書いていますので、それを出版元の許可を得て、このブログにも載せたいと思います。
 少し長くなりますが、興味のある方は、読んで見てください。

秋田県立盲学校の挑戦を見て思うこと

はじめに

 視覚障害者が経済的に自立していける唯一の職業として今でも皆さんの脳裏に浮かぶのはあ・は・き業(あんま・はり・灸)だと思います。盲学校は、このあ・は・き業の理論と技術を次世代に伝えることを主な目的として、明治の中頃にまず京都、そして東京に開設され、全国に次々に設置されて行ったのです。今でも東京や大阪などの一部地区を除けば、盲学校は地方の視覚障害者支援の唯一の専門機関なのです。

 視覚障害者に読書する喜びや様々な情報を伝える役割を担って来た各地の点字図書館や、視覚障害者協会なども、盲学校で理療科を教えて来た視覚障害当事者の教諭や卒業生の努力で発展してきたといっても間違いではないでしょう。
 そのように視覚障害者支援の専門施設として広く認識されている盲学校に、人生の半ばで障害者となったショックを何とか乗り越え、あるいは必要に迫られて経済的自立を目指す中途視覚障害者が相談に行き、入学をするというのは、至極当然のことでした。

 前回でも述べたように、人生の半ばで見えない見えにくい状態になった方たちは、今でも相談先として「盲学校」しか頼れない地域が沢山あるのです。
 中途視覚障害者が全視覚障害者の8割程度を占めている現在、全国の盲学校の理療科に通う生徒の多くは中途視覚障害者です。
 所で、壮年期になって見えない見えにくい状態になり、一人で歩く事や文字を読むこと、調理や洗濯など日常生活のことも、どうして良いのか良く分からないけれど、とにかく盲学校で理療科(東洋医学)の勉強をするということがどんなに難しいことか、皆さんにも容易に理解できると思います。

 まず移動すること、日常生活がこなせるようになり、読めなくなってしまった活字の代わりの情報入手手段を獲得した後で職業自立を目指すのが正しいリハビリテーションの道筋というものです。
 けれども、ほとんどの地域に、その基礎的なリハビリ技術を教えてくれる所はないので、私は以前から盲学校に、基礎的なリハの学べる学科があったら良いのにと思っていました。
 でも、「それは教育の役割ではない」と国も、盲学校の方たちも強く考えていましたから、そんな学科はできていませんでした。

 ところが、3年前に秋田県立盲学校が高等部専攻科の学科として「生活の質を向上させることを教育目標」とする生活情報科を開設したと知りました。
 どうしてそんな事ができたのか、そしてそこで学んでいる皆さんはどんな様子なのだろう?とにかくそのことが知りたくて、8月の末に二日間訪問させていただいて来ました。
 今回は、その訪問記を番外編として書かせていただきます。

1 あきた総合支援エリアかがやきの丘のこと

 私が訪ねた盲学校は、「あきた総合支援エリアかがやきの丘」にありました。このエリアには、盲学校・聾学校・きらり支援学校(肢体不自由特別支援学校)の3つの学校が廊下続きに並んで建てられており、隣接して県立医療療育センターがあるという「総合支援エリア」の名にふさわしいユニークな場所でした。
 三つの学校で事務室、職員室、校庭、体育館、プールや実習室は共有することによって、財政的な負担を減らし、その分最新式の設備を備えられるという合理的な考え方を取り入れながら、それぞれの児童生徒の違った教育ニーズに合わせた教育の独自性を維持するために、それぞれの学校に校長がいて、盲学校・聾学校・肢体不自由特別支援学校の独自性を追求して行くという大変ユニークな試みがなされていました。
 三つの学校が共有しているのはハードだけでなく、医療療育センターに属しているPTやOTのようなリハ専門家を必要に応じて各学校が活用したり、盲学校の職員として配置されている視能訓練士が盲学校の児童生徒の教育的視機能評価をおこなうだけでなく、重度・重複の肢体不自由児の教育的な視機能評価や「目の活用相談」に応じたりするという専門家の共有というメリットも追求していました。
役割分担がしっかりした組織があって、共有できる部分を共有し尽くして連携を図っていくということ、ここに医療と教育の、そして重複障害児が増え続けている中での、教育ニーズの違う児童・生徒への特別支援教育内での相互理解と連携の壮大な実験を目の当たりにしたような気がしました。

2 「生活情報科」とはどんなところ

  さて、私が一番知りたかった盲学校高等部専攻科生活情報科についてですが、「生活情報科案内」によると、開設は平成22年で、教育対象は「見えにくくなって家庭生活や社会生活、仕事で不便を感じている人」で「見えにくさを補うための生活技能を身につけたり情報補助機器の扱い方を習得したりして、再び自立した生活を送りたい方」となっています。視覚障害の程度による入学資格については、盲学校の入学資格基準に準じています。
 修業年限は原則1年ですが、必要に応じてもう1年継続して学ぶ事もできます。

 授業内容は、歩行・移動、日常生活動作、コミュニケーション(パソコンの使い方、点字の読み書きなど)の視覚障害リハの基本的な内容と、生涯学習(生活に必要な一般的情報を習得する)の4つの中から、個々のニーズに合わせて、生徒と先生が話し合いをして決めて行く形をとっています。週5日授業はあるのですが、本人の体調や家事・仕事などの都合に合わせ週3日だけ通うとか、本当に自由度の高い学習計画を作ることができるようになっています。
 修了認定は、校長がおこなう形をとりますが、盲学校にきちんと学籍があるので、通学にスクールバスを利用することができ、遠方の方は寄宿舎に入ることもできます。また収入に応じて就学奨励費を受ける事も可能です。
授業をおこなう先生方は、日本ライトハウスの歩行訓練士の養成コースを受講した先生方を中心に、視覚障害リハについての様々な勉強を積み重ねながら試行錯誤でカリキュラムを組み、授業をおこなっているとのことです。何しろ全国発の試みですから、手本になる所はないのです。 
今年度の受講生は4名。平均年齢は60歳ぐらいとのことですが、見学させていただいたパソコンの授業や調理実習なども、明るく和やかな雰囲気の中、皆さん真剣に取り組んでおられました。

 先生方のご配慮で、生徒さん達と一緒に給食を食べながらお話をするチャンスがありました。一人の生徒さんは、病気でほとんど失明に近い状態になってまだ1年も経っていないとの事でしたが、学校生活を前向きに楽しんでおられて「最初は週1日通えるかどうかと思ったけれど、今は楽しいので、できれば毎日でも学校に来たい」と言っておられました。
 生活情報科に入学してくる生徒さんは、最初の内は「白い杖を使えるようになりたい」など、生活技術を身につけることにだけ拘りがあるのだそうですが、2ヶ月も経つと「何十年ぶりかで学生に戻ったみたい」と生徒会活動や部活動にも積極的に参加するようになって行くのだそうです。

 3 中途視覚障害者のリハビリテーションを目的とした「生活情報科」がなぜできたのか?

 「個々のニーズと個々の生活状況に寄り添いながら見えない見えにくくなっても生きていける方法を仲間と共に学び、その学びの中で生きる自信を獲得していく」と言うことを目的としたこの学科のことを見聞きすればするほど、「従来の教育と言う概念からこんなに外れた学科をどうして開設できたのか?」という疑問がわいて来ました。そこで、その疑問を中村校長に率直にぶつけて見ました。

 中村校長は、盲学校教諭、肢体不自由養護学校教諭等特別支援教育に長く携わった後、県教育委員会で教育行政を担当するようになって、そこで、老朽化して立て替えが必要となった盲学校・聾学校・肢体不自由児養護学校を「かがやきの丘」に移転するプロジェクトに参加されたとのことでした。
 かがやきの丘の構想を練る段になって「これからの盲学校教育というのはどうあるべきか」を学びたくて、盲学校の卒業生に意見を聞いて回った時、地域でとても流行っている治療院を経営している卒業生が「自分は、治療院を開業してその道で成功しているけれど、一人で外出もできないし、家事も充分にこなせない」「もっと生活能力を身につけたかった」といわれたことに胸を打たれ「職業的だけでなく社会的に自立した視覚障害者を育てる」ことが盲学校教育の目標であると考えられたとのことでした。

 「また、身体障害者手帳1・2級の重度視覚障害者が秋田には2000人以上居るのに、その方達に適切なサービスを提供する福祉機関は皆無に近いので、視覚障害者のための専門機関として、乳幼児の子育て支援から壮年期のリハビリテーションまで盲学校がカバーすべきだ」と校長は言われ「視覚障害者が必要としているサービスを提供することが、盲学校を存続させるための武器なのだ」ともおっしゃっていました。
 このような観点から、盲学校の持てる資源をフルに活用して「ロービジョン支援センター」を立ち上げ、早期教育の拠点としての幼稚部を開設し、サテライトという形で地域にどんどん出て行って、地域で学ぶロービジョンの子ども達や親に対する相談にのり、小・中学校の先生方に視覚障害児教育に関するアドバイスをおこない、サテライト教室の後は、青年期以後のロービジョン者や家族の相談に乗るというシステムを作り上げていました。

 また眼科医にも積極的に働きかけて連携を強め、治療が難しい状態の患者は、なるべく早く紹介してもらうシステムを作ろうとしているのでした。
 「生活情報科」の開設は、この壮大な構想の一つに過ぎないのだということがお話を伺っている内に分かって来ました。
 「盲学校に在籍しているのは30名足らずだけれども、『ロービジョン支援センター』全体では100人以上の視覚障害者の支援をおこなっているわけだから、『盲学校の存在価値は充分あるし、秋田の視覚障害者にひろく貢献してます』『盲学校として存続させる意味は充分にあります』と行政担当者に説明して来た」と中村校長はおっしゃっていました。

 

4 視覚障害者のニーズに寄り添うことが視覚障害者支援の砦(盲学校)存続のカギ

「盲学校のセンター化」「教育・医療・福祉の連携が必要だ」と今まで、教育の分野でも福祉の分野でも医療の分野でも繰り返し叫ばれて来ましたが、その実現がいかに難しいかは、高知での実践でいやというほど味わって来ました。とにかくそれぞれに「教育の役割はここまで」とか「これは福祉の対象外だから」とかいう縛りがきつくて、教育は教育の論理がまず優先し、福祉は福祉の「対象論」がまずあって、行政も現場のリーダーもそこから一歩も足を踏み出さないというのが、今までの私の印象でした。
 秋田県立盲学校の皆さんと話していると「まず現在の視覚障害者の必要を考えて」「視覚障害者にとって絶対に必要なサービスだけど秋田ではどこも提供していないから、盲学校という視覚障害者支援の専門機関でとにかくやって見よう」という当事者や家族の方たちに正面から向かい合った姿勢を感じることができました。

 見えない見えにくい人たちの発達を支え、人生の半ばで見えない見えにくい状態になった人たちの再出発を支える理論と方法は、実はまだ確立などされていませんし、その理論と技術を伝承し発展させて行く上で「見えない見えにくいことに向き合い尽くす」盲学校の存在は、かけがえのないものだと考えています。しかし、ロービジョン者の教育や中途視覚障害者のリハビリテーションに背を向けていたら、いずれ盲学校は無用の長物になってしまうと私は思っていました。秋田県立盲学校は、今まで無視されて来た問題に当たり前のように取り組もうとし、そして「生活情報科」開設ということをおこなっています。「必要なことをする」という既成概念にとらわれない柔軟な発想をする校長のリーダーシップとそれについて行く先生方の気概に私も勇気をいただいた二日間でした。

 

5 秋田県立盲学校の試みのさらなる発展を願って

「職業的自立のみでなく生活者としての自立」を教育目標に掲げ、その具体化として「生活情報科」を開設する決断をされた中村校長は、教員の中から歩行訓練など視覚リハの専門スキルを担う方を育成するために、毎年一人ずつ日本ライトハウスの養成コースに派遣することを県に認めさせ、すでに二人が研修を終えて実際に活動をしておられます。この派遣に必要な予算は、平成29年度まで確保されているとの事で、「異動」という原則を踏まえての「人作り計画」私は感銘を覚えました。「でも、半年の歩行訓練養成を終えただけではますます高齢化して行き、重複化していく視覚リハの現場は担えないのでは」と私は思いましたし、「ロービジョン支援センター」で視機能評価を担い、教育と医療との架け橋の役割を果たしている視能訓練士の勤務が週3日では、そろそろ限界かとも感じました。そのことを校長にぶつけて見ると、「今後の課題として考えています」と前向きな答えをいただきました。
 実は中村校長は、後1年半で定年とのこと、それを伺って、「視覚障害児(者)のことを深く理解して、情熱を持って現在の路線を引き継ぐだけでなくて、発展させて行くようなリーダーの跡継ぎが出てくるのかなという思いにもとらわれました。
 残念ながら、特別支援教育に携わる教員の「専門性」が高く評価され、それを担保するような人事制度にはなっていないことを強く感じているので、「人事の壁」を秋田県立盲学校の実践がどう乗り越えて行くのか、関心を持ち続け、そこに未来への希望を見つけたいと思っている私です。