今朝友人からおもしろい電話がかかって来た。
「20年近く遣った電話機が壊れたので、新しいのに変えて、子機を初めて使うんだけど、上手くとれるかどうか試したいから、あなたから電話かけてほしい」とのこと。
この友人は、私と同い年、先天的な全盲で、私の盲学校の同級生である。その友人に言わせると、「自分は4歳ぐらいまでは、色や形が見えていたから、『先天全盲』ではない」と言うけれど、視覚リハの観点から言えば、小学校低学年までの失明は、先天全盲と言う考え方だから、私の分類の中では、先天の全盲である。
話を元に戻すと、子機の使い方を確かめるためと言うことで、私の方から電話をしたら、呼び出し1回で受話器を取って、相手が出た。「やっぱりこれで良いんだよね」と言い、「お客さんからの電話取り損なうといけないので」と付け加えた。
この友人、治療院を開業しているのだ。
こんなやりとりがあった後で曰く「一つ文句があるんだけど、この電話機、番号を押すと、数字を言うんだよね、うるさくて、番号を押すリズムが狂うから、こういうの止めてほしいんだよね」とのこと。
どうも、電話機をセットしていった業者が、「目が見えないから、音声での読み上げがあった方が良い」と勝手に判断してセットしていったらしい。
「読み上げを止めるのは簡単な操作でできるはずだけど、機種によってやり方違うから、誰か見える人が来たときに、説明書を読んでもらって」といって、会話は終了した。
私は、筑波大の付属盲学校(昔の教育大付属)に通っていたが、そこは、我が国唯一の国立盲学校で、全国から試験を受けて優秀な視覚障害者が集まって来ていた。そして、私のようなロービジョンより、全盲の学生の方が、たいていは優秀だった。
だから、この私の知人のような、全盲者は、ある意味でごろごろといて、白い杖をついて、平気で知らないところに一人で行くなんていうのも、ごく当たり前のことであった。
だから、大学を卒業して名古屋ライトハウスに勤めて、はじめて中途視覚障害の方たちに会ったとき「この人たち、何にもできないって嘆いていて、なんて情けないんだろう」と思ったものだ。正直に言えば、最初は少し嫌悪感も持ったように思う。
40年前のことで、私は、先天視覚障害者と中途視覚障害者の違いなど、何も知らなかった。今思うと、そのように感じた自分が恥ずかしいのであるが、とにかく世の中に、「目が見えないから何もできない」とこんな風に打ちひしがれてしまう人たちがいるのだということに衝撃を受けた。
この衝撃が、たぶん「視覚障害リハビリテーション」の普及を私のライフワークにしたいというきっかけになっているのだと思う。
とにかく、私の盲学校時代の友人と話していると、私が高知で相談に乗ってきた中途視覚障害者の方たちとは、別次元の世界を生きているような気がすることもある。それほど、先天と中途の視覚障害者のニーズは違うのだと、繰り返し感じ、そして、このことを一般に理解してもらう難しさを考えたりする。
知人からの電話が終わった後、急にこのことをブログに書いてみたくなって、書いてみた。ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。