障害が軽いからといって問題がないのではない

  • 投稿日:
  • by
  • カテゴリ:    

210.jpg
(写真は、私が裸眼で文字を読むときの様子)

  久しぶりに盲学校時代の後輩がひどく沈んだ声で電話をかけて来た。
  「新しい職場に変わったのだけれど、周囲が自分の障害をちっとも理解してくれない。日常生活は普通にできるのを見て、何でも普通に見えると誤解して、小さな字の書類を平気でまわしてくる。自分は『弱視なので読めない』と言っても、『だって普通に歩けるではないか』と言って、納得してくれない。」

  電話をかけてきたその後輩、先天性白内障の手術のため無水晶体眼で、矯正視力が0.1、視野にも障害がないし、暗順応もほぼ正常だから、確かに日常生活で困ることはほとんどないかもしれない。しかし、ピントを合わせたり拡大したり縮小したりするための水晶体と言うレンズがないので、細かいものを識別したり、字の読み書きなどになると、とたんに困るのである。

  「こんな自分のことをどうやって周りに分かってもらったら良いのか分からない」とその後輩、とても情けなそうな声で訴えてくる。
  同じような経験を沢山して来た私だが、後輩に的確な答えをすることができず、私も引きずられるように沈んだ気分になってしまったのである。

  私も無水晶体眼で矯正視力0.2、少し眼圧が高くなっているのだが、幸いなことに今は視野に異常もない。だから、慣れた所で行う日常生活ではほとんど困ることはない。
  しかしながら、細かい文字の読み書き、パソコンの操作、人の表情の判別などになると、お手上げ状態になる。
  今は、良い弱視レンズがいろいろとあるので、読書をするときは、8倍のレンズ、コンピューターの画面を見るときは、2倍から3倍のレンズをかけて焦点距離を長くするなど、工夫を凝らすことができるので、大学の教員などと言う仕事が何とか勤まっているが、事務処理能力は、障害のない人の1/3にも満たない。つまり、人並みにやろうと思えば、人の3倍の時間と労力が必要で、無理な姿勢などを長く続けているから、疲労困憊することになる。

  慣れたところではすっ飛んで歩き、日常生活の範囲ならほとんど障害のない人と同じようにこなすのに、道ですれ違った知り合いの顔が分からないので挨拶ができないし、夜空に輝いている星を「きれいね」と眺めることができるのに、細かい字は読めず・書けずなど、ロービジョンと言う障害は、中途半端で、ひどく理解されにくい障害である。

  理解されにくければ、当然のことながら様々に誤解されて、人間関係もぎくしゃくするから、とにかく社会で生きづらくなる。
  これは、もちろんやっかいなことであるが、もっと問題なことがある。それは、私ぐらいの程度の障害者は、「自分には障害がある」と言う自己認識と言うか割り切りと言うか、アイデンティティーが作りにくいことなのである。

  「ちょっと無理をすれば障害者ではないように振る舞える」、「見えていないけれど見えているような振りはできる」ので、「障害のない人と同じになれる」と言う夢想が絶えず心を揺さぶるのである。
  けれども、ハンディは厳然としてあるので、現実の前に夢想は、むなしく消え去るのである。夢想と現実の間で、行ったり来たりしながら精神はどんどん傷ついて行く。
  ラッキーなことに私の周りにはすばらしい仲間がいて、良い意味で「居直る」ことを教えてくれ、ある意味ではロービジョンを武器にして仕事をすることができるようになった。
  しかし、家族や良い仲間に恵まれず、いつまでも夢想と現実の間で傷つき続けている人たちがとても多いように思う。

  ロービジョンに限らず障害が軽いと、親もなかなか我が子の障害を受容しない(この子がもう少し努力すれば普通になれると思おうとする)。養護学校などの先生たちも、障害が軽ければ「何とかなる」と思ってあまり手をかけない。
  盲学校を例に取っても、全盲者への教育法は早くから開発されているけれど、ロービジョン者は、全盲者の世話係で、便利屋のように使われるけれど、適切な教育を受けているとは言い難い。

  障害のない人たちと同じようにできそうで決してできない私たちのような軽いと言われているロービジョン者(他の障害者も)の多くが、夢想と現実の中で自分を見失って漂ってしまっている。

  障害が軽いから良いのでもなく、日常生活ができるから問題ないのではない。1人1人、その人の身になったら、重いも軽いもない。だいたい比べることがおかしいのである。
  1人1人の悩みに対する適切なケアが必要なのである。