リハビリテーションの定義を誤解するな

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  昨日私が書いた日記に、早速ウエルパ高知の下元さんからコメントがあり、またブログにも関連の記事が掲載されました。それを見て、私なりに考えたことを書きたいと思います。

  リハビリテーションという言葉の定義は、一般社会の障害者観の変化と人権意識の高まりの中で、大きな変遷を遂げて来ました。詳細は略しますが、障害者を鍛えて、経済的に自立できるようにするというのがリハビリテーションの目標であった時代から、約40年を経て、国連の障害者行動計画の中でのリハビリテーションの定義は、三つの大切なことを提起しています。

  1 リハビリテーションの4つの分野とその役割分担
    医学的・教育的・職業的・社会的リハビリテーションがあること

  2 リハビリテーションは、障害をもった個人が新しい人生を踏み出し送るために有用な手段を提供すること

  3 リハビリテーションとは時間を区切ったプロセスであるべきこと

  1は、リハビリテーションが、機能回復のための運動療法というような狭いものではなく、「全人的復権」を支える広範囲の営みであることを表しています。
  2と3は、それまでのリハビリテーションが、ともすればいわゆ専門家が障害者本人の人生設計や意志を無視して、勝手に目標を決めて、だらだらと無制限に訓練を繰り広げて来たことへの強い反省から出た定義である。
  たとえば、「あなたの目標は歩けるようになること」と専門家が決めて、来る日も来る日も歩く練習をするが、訓練を受けている本人にとって、「なんのために歩く必要があるのか分からない」「どこへ歩いて行くのかの目当てがない」、まるで歩けるようになるために生きているような、かつての福祉施設の中で行われていたリハビリとは、こんなものだったことに対する、反省なのです。

  所がこの「時間を区切ったプロセス」という部分が、誤解されているのか、利用されているのか、医療財政の危機と結びついて、「この症状には半年」などのようになってしまったように、私には思えるのです。

  昨日の日記で紹介した方は、とても活発に活動し、充実した人生を送っておられますから、姿勢を直して、将来の体への悪影響を防ぐために、時間を割くのかどうか、それは、私には分かりませんが、少なくとも、そのような方法があり、場所があるべきだし、セラピストからきちんとしたアドバイスを受けるべきだと思います。
  その上で、セラピーを受けるのかどうかは、本人が決めることでしょう。でも、今は、アドバイスを受けることも、セラピーを受ける場所もありません。
  それは、上記のリハビリテーションの定義に反することだと思うのです。
  時間を区切ったプロセスという真の意味を、皆さんもう一度考えて見て欲しいです。
  
  私の角膜はだいぶ弱ってきていて、眼圧のメンテナンスも重要になってきています。仕事柄、私の回りには、沢山の専門家の方がいて、いつでも適切なアドバイスをしてくれます。それで今も、20年前とそれほど遜色なくハードワークをこなしていけているのだと思っています。
  障害と共に年を重ねていくすべての人たちが、適切なメンテナンスを受けられるようにするべきだと思います。