下記の講演は、2002年8月7日に徳島県障害児教育学会で私が行った講演を、障害児教育学会誌に乗せるために、盲学校の先生がテープ興ししてくださったものを手直ししたものです。

 

障害児教育学会 講演

「障害児(者)教育に今期待すること—支援費制度導入と障害当事者と家族の生き抜く力を育てるために—」

                          高知女子大学大学社会福祉学部  吉野 由美子 

 

はじめにー自己紹介ー

 私は自分自身に視覚障害があり1956年に東京の教育大学(現筑波大学)附属盲学校に入学したのですが、それで高等部まで盲学校で過ごして、2年ほど浪人をして大学受験して、社会福祉学部に進みました。

 終始、障害者福祉が自分のアイデンティティーから出たテーマであり、特に名古屋ライトハウスでのたくさんの中途視覚障害の方との出会いで、中途視覚障害がどんなに大変なことなのかを思い知りました。

 私、盲学校高等部の普通科を卒業して、学力に問題がありましたし、未だ、「点字受験者お断り」の風潮の強い時代でもありましたから、2年間浪人して、昭和45年に大学に入学しましたけれど、大学に行って半年ぐらいで「もう私はとても大学生活について行けない、やめたい」とノイローゼ状態になりました。

 なぜそうなったかと言うと、小学部から高等部を通じて、ずっと10人以下のクラスメートとつきあっていれば良い村社会から、大学でいきなり1クラス400人という超都会に放り込まれ、どうして良いか分からなくなったからです。

 その時私は、「どうして盲学校に入れられたのだろう」と強く恨みに近い気分で思ったものでした。私たちは学校の時は保護された素晴らしい環境の中で専門的なことを教えてもらっても、いつかは社会に出なければならない。それなら、最初から普通の人たちと一緒に生活するのが当たり前なのではないか。一時、大変強い、特殊教育反対論者になり、沢山の良い友達のおかげで、大学生活には徐々に慣れ、危機を乗り切ることが出来た後でも、特殊な社会に入れられるという意味で、特殊教育反対論者であり続けました。

  1 特殊教育を受けることは、普通の社会で生きることを犠牲にすること、

    それに見合う高い専門性を

 ところが、社会福祉の仕事に従事するようになって、統合教育で来た視覚障害の方の、大学受験だとか、公務員の試験の受験相談にのるチャンスが出てきて、私の考えも少し変わって来ました。なぜかというと、二つの理由があります。その第一の理由は、点字教育、しっかりした点字教育を受けられたということ。第二は、私のような重複障害者が、盲学校のような保護された環境の中でこそ、のびのびと育てたのだと言うことが分かって来たからです。私は、自分の障害者としてのアイデンティティー、自分がどうも普通の子どもと違うぞっていう認識は、足の障害から認識したのです。盲学校では目が見えないとか、見えにくいのは当たり前ですから、私だけでした足の障害があるのは。だから、足の障害について、結構、コンプレックスありました、でも、本当に周りの先生方も、それから、級友も優しかったです。それは、ひとつは少人数と言うこと、自分たちも障害を持っているということで、私のように重複の障害を持っている者についても、とてもやさしく受け入れてくれて、例えば私が一緒に行ける遠足とか、誰か一人、必ず付いてくれて、励ましてくれて、山を一緒に歩くとか、もちろんいじめなど全くありませんでした。あの時代は、今みたいにノーマライゼーションなんてこと言われていなかったし、まだまだ障害者差別が非常にきつい時代でした。それにもかかわらず、本当に良い学校生活を送れたのですが、それは、盲学校だったからだということに気付きました。少人数の手厚い教育の中でこそ保障されたんだと思いました。統合教育のメリットは確かにあると思いますが、それは集団の中で、自分の居場所を確保し、統合教育から得られる大変すばらしいいろんな刺激を吸収して伸びていくだけの力が子どもの側に必要です。大変障害が重かったり、ハンディが大きければ、受け止める力がまだ育っていないわけですから、それを育てるためには、特殊教育という名の専門教育が必要だと思っています。ほんとうは、選択できることが大事で、その子の能力に応じて、統合がいいのか、いわば一般の学級でする方がいいのか、いわゆる盲・聾・養護学校のような、あるいは特殊学級でする方がいいのかといことが、もっと自由に選択できるようにできればいいなと思っております。

 第二の理由でずいぶん寄り道をしましたが、第一の理由、点字教育の話に戻ると、私は、点字を私の情報入手の文字として、しっかりと獲得できていると確信出来ていることです。私は、必要に迫られて普通の字に変えましたけれど、その前にきちんとした点字の読み書きができるようにしてもらって非常に良かったとおもっています。私は、弱視です、もしかすると見えなくなる可能性も否定できないのですが、そのときは私はいつでも点字を使って今の仕事を続けていけるぞという自信がもてるほど、私には盲学校できちんとした点字の教育がなされたと思っています。そのきちんとしたとはどういうこと言うと、大学受験の時、今1.5倍の時間延長をしてもらえるということが決まっておりますが、それでも結構すごい量を読んで解答を書かなければなりません。その試験問題の中には漢文的なものも、英語の略字を使った問題も出てきます、もちろん数学の式ですとか出てきます。それらをちゃんと読みこなして解答を書ける。あるスピードの中で。だいたい実用的に文字を使う時には1分間に最低150ワードそれから200ぐらいを読まなければならないと思うのですが、それができる程度に、点字をきちんと使いこなせるよう教育されています。公務員試験を受けるとき、公務員試験の問題は150問ぐらいの一般教養だったと思うんですが、点字にすると厚い本みたいのがきまして、それをどんどん読んで3択だったか5択だったか羅列している解答の中から数字を選んで書き留めていくというものを3時間ぐらいでやる。結構スピードが要求されて、それこそ一般教養ですからなんでも出てきますので、いろんな問題が入り交じったのをどんどん解かされる。そういうのを私は十分にこなすだけの能力を点字で持てた、それから小学生の時に本を読むのが楽しかった。点字のをですね。冬なんかかじかんで感覚が鈍って読めない。仕方がないからこたつの中に本ごと入れて読むと暖かくてとってもいい気持ちで、子供用に優しく書かれた、例えば小学校の終わり頃には推理小説が好きだったのでシャーロックホームズに凝って楽しみました。そんな中で情報入手の手段として、きちんとした点字と読書を楽しむということを盲学校に教わりました。

 基礎学力、読むという事・書くということ、それも実用に堪える速度で読んで書いて情報を入手出来るようにすると言うことが、盲学校でのほんとうに大切な専門教育です。この専門的な教育を、少人数で社会的なつきあいということを犠牲にすることによって、特殊教育の中にはいると特殊な環境の中で育てられると言うことと引き替えに、専門的教育を受けることが出来る。それが、特殊教育の最大の利点のはずです。

 ところが、どうもその専門的な教育がおかしいのではないかと、私は、大変気になっているのです。

 弱視児に点字を教えるか普通字にするかと言うことを例に上げると、きちんとした根拠、が見あたりません。弱視教育の導入によって普通の字を視力の弱い私たちが覚えるのは非常に重要で、点字をきちんと読み書きできる人は全国に3万人ぐらいしかいない、その方たちに対しての情報配慮がまだまだ十分でないのは当然のことでして。普通の人たちが使っている活字を読めることはとても重要なことなのですが、ちゃんとその子どもたちの見え方を評価して、きちんとした補助具の使い方を拡大読書器だとか単眼鏡だとかいろいろな補助レンズの使い方をきちんと評価した上で、いずれ1分で150ワードぐらい読めるぐらいになるかどうかをきちんと理解した上で、普通字の教育を本当にしているのだろうかと思われることがいっぱいありました。それから普通字がだめだから点字にするという変換をするとき、きちっとした評価をした上で変更をしているのかどうか。それは大変怪しいなと思い知らされました。あるところでは親御さんが自分の価値観で普通字の方がいいというため、非常に視力の弱い子が補助メガネを2つ重ねて必死になって読んでいて、「あ」という文字を読めてから10秒から20秒経ってから「い」という文字を読めるようなそんな子どもに普通字で教育しているところを見てしまったり、逆にある学校では点字信奉者のような先生がいまして、盲学校に入ったらとにかく何でもかんでも点字を教えるべきだと言って点字をひたすら教えているという場面を見かけました。これは一体盲学校で専門性からいって許されることだろうかと考えてしまいます。

 とにかく、盲学校で私は本当の意味できちんとした基礎学力を身に着けさせて頂いた。小さな集団の中だから丁寧に教育していただけたから、私のような重複障害の者でも、きちんと、変な風に劣等感を持つことなく、いじめに遭うこともなく、その後の人生の中で結構自信を持って生きられるようになった。そんな人たちを育てて行くのが、盲学校を初めとする特殊教育の専門性だと思うのですが、今、その大切な専門性が揺らいできているのではという危惧を定期したいと思います。

 

 2 障害と真正面から向かい合える力を育てて欲しい

 盲学校で教育を受けてとても残念だと思ったことは、思春期を迎える時に、自分は何者かという問いかけに、特に障害のことについて、先生方にきちんと答えてもらえなかったことです。「結婚をして子供を産んで育てる時に、私の子供は私の障害を受け継ぐのかなあ」素朴な疑問を持ったけれど、先生に片っ端からそのことをぶつけてみたのですが、ちゃんとした答えを得ることができませんでした。非常勤の生物の先生が、シビアに教えてくれて、とてもうれしかった覚えがあります。「あなたの先天性の白内障は、少なくとも体質的なものは遺伝の可能性があるね。だから絶対にあなたが産む子供が障害児じゃないということは言いづらいね。」と。その先生は、たまたま目のことを研究している方でしたから、眼鏡のフィッテッイングというのを初めてしてもらって、色々新しい眼鏡の使い方や、補装具の扱い方というのも、その時初めて教わりました。

 自分の将来を考えるとき、いったい自分の障害と言うのは、どんなものなのか、生きていく上でどんな影響があるのかについて、いやでもきちんと向かい合わなければいけませんが、盲・聾・養護学校の教育の中で、障害に向かい合うと言う場も、障害を持ちながらうまく生活して行く力を養う場もないようです。例えば障害者手帳をとって障害を持っているためにおこる生活問題に対応する手段を、社会科などでは教わらない。

 学生時代に自分の障害にきちんと向かい合い、知識を持つように育てるのが、障害児教育に携わる先生方の重要な専門性ではないかと私は考えます。障害児教育を受けるということは特定の隔離された環境の中で暮らすわけですから、とても大きな犠牲を払います。一般社会に出たとき、カルチャーショックを受けます。それだけの犠牲を払って特殊教育の中にいるという時には、それに見合う専門教育を受ける権利がある。「障害を持った自分を見つめる」力をはぐくむというのは、特殊教育の専門性の重要な一部です。

 けれど一般に先生方は、「障害が学力を上げるためにどんなふうに困るかという部分、例えば字が見えない、読めないから代替えの文字として点字を使う」という方法論だけを専門性と考えているように思えてなりません。

 これは、とても残念なことだし、間違っていると思います。

 

 3 措置制度から支援費制度へ(何がどう変わるのか)

  次に、親御さんや本人が「私の障害はこうなので、こんなサービスが受けたい」と言えるようにならないと、支援費制度下の時代を生き抜けないと言うお話しに移りたいと思います。

 支援費制度とは、簡単に言うと、福祉サービスを受けるやり方が、措置制度(行政判断による行政処分)から、当事者とサービス提供施設との対等な立場での自由契約となることです(紙数の都合上詳しい説明は省略、レジュメ参照)。つまり、障害者が「このサービスを自分は受けたい」ということを、まず市町村の相談支援窓口に言い、そのサービスを受けるのが本当にいいのかどうか、もっとほかのサービスを受けた方がいいのか相談に乗ってもらい検討し、そして「これがいい」ということになると、今度は施設に行き、施設と対等な形で契約を結ぶ。契約を結ぶと、利用料を支援費として行政が当事者に代わって、サービスを提供している施設に払う、という仕組みです。

 障害者や家族の意志で選択し、自由に契約を結ぶことか出来るようになると言うのは、すばらしいことですが、自由意志で選択し契約するためには、絶対必要な条件があります。

 まず、契約の必要条件は、「買うものがあること・買う意志があること・買う力があること」です。、また、自由意志で選択するための必要条件は、「選択の余地があるほど買うものがあること・買うものに対する正しい情報が提供されていること・利用者(障害者)側に、選択する力(意志・判断能力)があること」です。

  障害者福祉サービス提供方法が、支援費制度と言う契約制度に変わるときに検討しなければならない重要なことに、サービスが充分提供されるか(買い物があるか・選択できるだけあるか)・買う力(買うだけの所得が保障されるか)があり、それは、とても重要な争点なのですが、ここでは、特殊教育の問題に深く関わることについてだけ言及しておきたいと思います。

 

 4 支援費制度下で、盲・聾・養護学校など特殊教育に期待されるものは

 (1)まず、支援費制度下で特殊教育に期待することは、「障害に向かい合い自分の限界を含め、障害について正しい知識を持つ人」を育てること、「障害をもって生活していける力」生活力のある人を育てることです。

 つまり、支援費制度のもとでは、自由意思で契約をしますが、それは、いろいろな情報の中から選択すると言うことなんです。選択するためには、あるいは、選択のため相談するためには、「自分はどういう人生を生きたいのか」、「自分にはこういう障害があるので、こういうサービスが必要なんだ」ということを本人(家族)が自分の言葉で表現し、伝えられないと、サービスを的確に選んで受けることはできないわけです。自分の障害と向かい合い認識し表現する力が絶対に必要なのです。ー先ほど2でお話しした力ですー

 ロービジョン(弱視)の方たちが、自分の眼に合っためがねや拡大読書機を選んだり、日常生活訓練を受けたりする時、一番大切なことは、その人がどんな風にものが見えているか、どういう風に見るのが見やすいのかということを本人が自覚し、本人のことばで語ることが出来るよう指導することなのです。そのために、網膜の写真を撮って、細胞が正常に働いているところを示したり、視野図を見せたりして、「どこが見えるか」、「どのように見えるのか」本人に意識化させる訳なんです。それで初めて、今度は「じゃあ、その見えてる部分をうまく使うためにはこの補助具がいいでしょう」と言うことが理解出来る訳です。

 ここでは、弱視者の例をとりましたが、自分の障害をきちんと理解していないと、適切なサービスを選択出来ないという点は、他の障害も同様なのです。だから、「障害と正面から向かい合う」「分析できる」力が、はぐくまれなければならないし、特殊教育にそれが期待されていると私は思うのです。

 (2)障害者に、その障害に適した方法でしっかりした基礎学力をつけることは、いつの時代にも変わらず特殊教育に要求され期待されて来たことです。それに加え、私は、2で述べた、「障害を持って生き抜く力」を育てることもまた、いつの時代でも特殊教育に期待されて来たことと思いますが、それが今特に必要だと言うのは、上記で説明させて頂いた通りです。

 そして、新たに重要度が増してき、要請が強まっているのは、盲・聾・養護学校等の特殊教育機関が、障害に対する専門機関として、障害者の一生を通じての支援機関としての役割を担ってもらいたいと言うことなのです。

 なぜ、支援費制度下でそのような必要が強くなって来たかと言うと、支援費制度下では、障害児者の相談から制度適用までの、市町村の役割が重視されるようになったのですが、市町村には、個々の障害者のニーズに即した援助をアドバイス出来るような専門家が殆どいないのです。なぜかというと、望ましい公務員像と言うのは、ゼネラルに仕事がこなせることで、ひとつのセクションにだけ詳しい専門家をたくさん作らないというのが一般的ですから、福祉の窓口に障害者の専門家は座っていないからなのです。そこで、障害者のケアマネージャーを、今急ピッチで養成しているけれど、大変広い範囲のことを扱うケアマネージャーの仕事を、非常に短期間の認定講習の中で養成するには、ずいぶん無理があります。 

 そんな中で、各県に必ずある障害の専門機関としての、盲・聾・養護学校などや、障害の専門家としての教員への期待がとても高くなって来るわけです。

 特殊教育諸機関や先生方に障害当事者や家族が要求することは、本人の将来を考えるための教育の分野に限られないあらゆる情報を提供して欲しいと言うことです。

 障害児教育に限定されない福祉・医療などの幅広い情報を入手することは、とても学校だけで出来ることではありませんし、障害児の重度・重複化や、盲学校のように多数の中途視覚障害者を受け入れることを余儀なくされている、今日の障害児者の教育現場は、医療や福祉と連携をとらなければやって行けないはずだと私は思うのです。

 そこで、今、特殊教育諸学校に期待されている姿は、障害児の専門教育機関としてのしっかりしたポリシーと方法・技術を保持しながら、医療・福祉と密な連携を取りつつ、障害児を一生涯にわたって支援して行くことが出来る障害に対する専門機関、障害者地域支援センターのようなものではないかと、私は考えているのです。

  文部科学省と厚生労働省の行政の壁は厚く、教育・医療・福祉の連帯と言っても、そんなに簡単なことではないと言うことは、重々分かっていますが、少子化による障害児童の減少・障害の重度・重複化・中途障害者の増加など、特殊教育を取り巻く現状は激変しています。福祉も教育も、サービスを受けるもののニーズに適合できなければ、いずれだめになって行きます。そうならないように、親御さんや当事者の期待に答えて行けるよう、福祉・教育が連帯して努力していくことが、今こそ求められていると思います。

  これで私の講演を終わらせて頂きます。

 

  講演者注 上記文章は、私の講演をテープおこしして頂いた14ページにも及ぶ原稿に削除と修正を加え、6ページ程度に圧縮いたしましたので、分かりにくい点も多々あると思います。ご容赦ください。