2003年2月2日(日)高知女性総合センター(ソーレ)で、「盲ろう当事者に聞く」と言う公開講演会を行い、榎本さんを講師にお招きしました。
下記の文章は、当日講演の資料として配付したものを、榎本さんの了承を得てアップさせていただいたものです。講演の内容は、もっと盛りだくさんのものですが、一部でも雰囲気が伝わればと思います。(説明文 吉野)、
「光と音のない私の生活」
榎本悠起枝(えのもと ゆきえ)
私が視力、聴力を同時に失い、中途失聴、一人暮らしでのりこえた15年の苦労話しをかいつまんでお話ししたいと思います。短い時間の中で、どれだけおわかりいただけるかわかりませんが、御不明の点がありましたら、後で御質問下さい。
初めに、私のおいたちを少しお話しいたします。私は豊かな家の長女として生まれ、なんの苦労もなく、幸せな生活を送りました。子どもの頃の思い出は、楽しかった事ばかりが思い浮かびます。難を言えば、私が好き嫌いが激しく、栄養のバランスが崩れ、虚弱体質であるが故に、流行目を病み、そのまま弱視となったことです。普通の文字が読めず、手に持つ拡大レンズで読まねばなりませんでした。ただ今ですと、便利な拡大テレビがありますね。
学校は努力で卒業し、大学までは無理とあきらめて、その後、好奇心の強い私は弱視でも出来る習い事に挑戦し、それぞれ資格も取り、下手の横好きの音楽もやりました。もちろん遊びも大好きですから、いろいろ楽しみました。全部親まかせの生活ですから、のんきなものです。今、思うと親は大変だった事と思います。
ハンディを持ち、精神的に苦労はしましたが、やれないと思った事が出来た時の喜びは、格別ですね。今もその挑戦は、私の原動力にもなっています。そんななかで三味線が仕事となり、三味線の道でどうにか世に出る事が出来、これからという矢先、世にも不思議な盲聾に突然変身致したのです。リングの上で言えば強烈なパンチで、もう立ち上がれないノックダウンです。無常の風などと言いますが、夢にも思わなかった出来事でした。突然耳が聞こえなくなると、身体は地上を離れ宇宙を飛んでいるようになり、歩くことが出来なく、どこかにつかまりながら這って歩く状態が続きました。病院では絶対安静を宣告されました。過酷な現実の中で運命を呪い、恐ろしい孤独と暗黒の中で、ただただ早く、死が来ることを祈ったものです。障害を機に華やかな私の人生の幕は閉ざされ、奈落の底でもがいた5年。その時の私のコミュニケーション手段は、咄嗟に考えた、手のひら書きでした。病院ではヘレンケラーも使用したというレイズライターも使いました。1日、手のひらに30字位の文字で過ごしました。後は私からの発語に○、×を書いて貰いました。10本の指を人に例え、耳、肩、腕、どこでも使える所は使い、次々と合図を作り、ワンタッチで、時間の短縮を考えていきました。書いて貰いながら、よくこんな事を言って笑ったものです。「へたな火事なら、鎮火しちゃうわね。」笑いでごまかしましたが、情けなかったです。
涙涙の日が過ぎ、泣いても誰も助けてはくれない。どうせ生きるならと奮起。まず健康作りを、そして恐ろしい空白をうめる為に、編み物、点字本、草花やサボテン類を育て、生あるものに手で触れ、慰められながら過ごしました。その頃は行き違いから人間嫌いになってもいましたしね。
何をやっていても何も言われない人間。空しいですね。人の役に立ちたいと願って来たのに。放置された壊れた自転車のような人間。ただ、何もしていないとどうにもやりきれなくなり、お尻に火がついたように、家の中を夜となく、昼となく動き回ったものです。その時、人が私を見たら、気のふれた人のようであったと思います。
今度はガンにみまわれました。これでおしまいと思いました。入院するために日本点字図書館から点字本を直接病院に送ってもらう手続きをするために、行った時です。運命の神がそこで、全盲の女性に会わせてくれたのです。それから素晴らしい指点字が始まりました。なかでも、小島先生が開いて下さった、千葉大の盲聾セミナーは、最も私にとってしっかりした精神力を与えてくれました。私の心は少しずつ解け、恐ろしい空白も、少なくなりました。ブリスタ、指点字が今の私を作ってくれました。外を一歩も歩けない私。盲聾は手引きがあって歩けたとしても、通訳者がいなければ、何も出来ないのです。
「私の日常生活について」
1.精神安定の為に
我が身を見つめる時間を、少なくする為に、夜も昼もない、暗黒の世界の中で、いかに我が心をおさめようかと思い迷った末、手当たりしだいに、次から次へと挑戦。体を酷使し、ただただ眠る。
寂しさに耐える為、犬も飼いました。犬にとっては、大変迷惑なことで、こんな事もありました。夜の夜中、眠れなくて、寝ているミミコ(犬の名前)を起こし、気を紛らわせていました。ミミコはいい迷惑。だんだん食欲が無くなり、医者に診せたところ、急性の胃炎と言われ、思い当たることのある私は、起こすのを止めました。ミミコが犠牲になった次第です。
それと、趣味もその一つで、一般には「趣味」と言うものも、私にとっては、精神安定剤。やれるという、喜び。やれたという、自信。心の鎮静剤でもあるのです。
2.健康作り
私が盲聾に「変身」して、もんもんとして過ごした、2年間。その後、健康作りを思いつき、いろいろな所に問い合わせて、やっと巡り会えたのが、スポーツサウナ。そこで3年間、週1度ないし2度、マンツーマンで指導を受け、お陰で、今日では、水泳、登山、ランニング、ゴルフ、雪山にも挑戦し、スキーを獲得し、楽しんでいます。
以前にはスポーツは不得手な私でしたが、これも健康作りのお陰だと思います。
3.住まいの工夫
私の家は一人で住むには少し広く、方向感覚の乏しい私には、大変でした。そこで、手だけではなく、足にも役割分担しています。じゅうたん、畳、板の間。小さなじゅうたんを、そこここに置き、現在位置を確認するのです。
4.電話の工夫
盲聾一人暮らしにとって、重要な器具は、電話、ファックス、点字器です。電話の工夫は涙ぐましき努力を重ね、現在では、フルに利用しています。相手からの交信には、留守番電話とファックス。これらは人の手を借りることになります。
こちらからの交信は、一方通行ですが、この場合は用件を話し、「はい」と「無言」で確認をとります。受話器はスピーカーホンを使用し、最近はこんな事も可能になってきました。
相手が何か言いたい時は、「アー」と声を出してもらいます。すると、受話器に振動がきます。こちらでは、50音を縦に「ア、カ、サ、タ、ナ・・・」と話します。ア行の中にある字か、カ行の中にある字か・・・と、相手が拾って「はい」の信号を送ります。それの繰り返しで電文のようなものを、こちらで拾えるようにもなったのです。これはまだまだ工夫が必要です。
電話については、この先、点字電話ができるとか・・・。私にとってうれしい、待遠しい話です。一日も早く私の手元に置きたいと願っています。
5.食生活の工夫
食べることには食いしん坊の私には、力がこもります。これには、買い物も伴いますが一人歩きの出来ない私は、ドサッとまとまて買う癖があります。自ずと大きな冷蔵庫はいつも満たんです。調理器具はいろいろな物を買い揃え、使いやすい物を研究します。
落ち着いた物は、ガス、電子レンジ、電気器具のいくつかです。
揚げ物、炒め物には、使いやすい物を自分で選び、包丁も出刃、刺し身包丁、ペティナイフ等、形の違う包丁を何本も揃え、試し、大きな魚をおろしてみたり、小さい魚をさばいたり・・・。時間のたっぷりある私は、制限無しに実験を繰り返しました。
焼き魚の時、こんな事がありました。切り身一切れを買い、網にのせ、ちょっとうっかりしているうちに真っ黒こげ。もう、おかずにはなりません。その後、切り身に関わらず必ず複数買うことにしています。
接待については、初めは人が来た時や、接待の時だけ、誰かに来てもらっていました。ですが、誰かに来てもらうことも大変なことから、工夫が生まれました。鍋物や鉄板焼き、その他の物でも、工夫によって私が、サービスすることが出来るようになったのです。
今では、5、6名の視障者のお客さまの時でも人を頼まず、一人でこなしています。
6.衣類の整理
衣類は以前からの物もあり、又、「変身」してから求めた物もあります。
形は手で触れば解りますが、困るのは色彩です。
私は以前の仕事がら、着物が多く、着物には沢山の付属の、小物があります。色彩の調和が大切なので、神経を使います。いちいち人に来てもらうわけにもいかず。そこで、着物の場合は、たとう紙にタックペーパーで、色、柄、素材を記し、洋服の類も皆、タックのお世話になっています。2ヶ月もの日々を費やして、作業をして張り付けた時は、とても大変で、呪いの言葉も口をついて出たものです。
我が家は食品に至るまで、タック、タックのお陰で、これは何かを知るのです。