岐阜盲学校 職 員 研 修 会

平成14年9月12日(木)

                 於:ドリームシアター

     講演

   演題「福祉と教育の連携で視覚障害児・者のサービスの向上を図る試み」

               講師 高知女子大学  吉野由美子先生

 

●はじめに

 高知女子大学社会福祉学部、吉野と申します。

 私は視覚障害と足とに障害をあわせもつ重複障害者です。視覚障害は先天性白内障からきており、視力は眼鏡をかけて約0.1ですが、足の障害の方が重く、手帳的には両方の障害を合わせて4級という障害者です。

 先ほど校長先生より、視覚障害者の自立支援に勢力をそそいでいると過分な紹介をしていただきました。私は、私の人生の中でたまたま強烈な体験をして、そこから視覚障害者リハビリテーションや支援を始めました。現在私は高知県で、視覚障害者リハビリテーションについての考え方の普及とか、システムの問題などに取り組んでおります。

 また、「今後の盲学校の在り方」という大変難しい課題もいただきました。そこで、私としては、福祉の側からみた視覚障害者リハビリテーションの在り方はどうあるべきかをお話しし、その中で盲学校が外から見て、どう見えているか、どう在るべきか、また、福祉の側からみた人間として盲学校に何を期待しているかという視点でお話ししたいと思います。

 

●視覚障害者=理療だった私の学生時代

 ただいま紹介いただいたように、私は高等部3年生まで現在の筑波大学付属盲学校、東京教育大学附属盲学校で学びました。私が高等部を卒業したのは昭和43年(1968年)で、その頃はご存じのように、まだまだ視覚障害者の仕事は三療業(あはき業)と才能のある人は音楽関係の仕事というように限られておりました。そして筑波大学附属盲学校でも、やっと高等部普通科の教育が少し軌道にのってきた状態で、その頃少し新しい考えを持っている多くの視覚障害者の人たちは、理療科に進むのではなく、普通科を出て大学に進学し、新しい職業を目指すことに情熱を注いでおられました。しかし、私の場合は少し事情が異なりました。つまり足の障害があって、体力的にも問題があり、最初から理療科を目指すことが難しいと思っておりました。

 そういう気風の中で、私は若気の至りで、「何で視覚障害者イコール理療なのか」と疑問を抱いておりました。その結果普通科に進学しました。そして、その後ちょうどいい具合に大学の門戸開放運動があり、文部省の署名運動にも参加しながら、先輩の後について活動しているうちに、2年間浪人して昭和45年  (1970年)に日本福祉大学に入学しました。私はそのとき初めて、いわゆるインテグレートされたわけです。

 

●インテグレートで激しいカルチャーショック

 それはあまりにも環境が違いすぎました。その当時盲学校普通科は授業が始まったばかりで、普通科に進んでも仕事に就けない状況でした。クラスメートも3人で、小学部のときからでも10人以上のクラスは一度も経験しておりません。それに比べて日本福祉大学は福祉の日大ともよばれ、今では年間600人ほどの卒業生を出しており、当時でも一学年400人という状態でした。休講やいろんな情報のすべてを掲示板を使って知らせる状況でした。そういう中で何かに目的を持っていれば、そこでサークルなどに所属し、集団活動することができますが、私は、田舎の人間がいきなり大都会に放り出されたようなカルチャーショックを受けました。おまけに当時は70年安保が崩れ、学生運動が様々な方向に走り出したころでした。こんな時に私は日本福祉大学で過ごしました。

 その当時、正直いって、「何で私は盲学校に行かなければならなかったのか」と思っていました。いずれ社会にでるときに、一生視覚障害者の友達や盲学校の先生とつきあっていくならともかく、いずれ社会にでるならば、いきなり社会に放り出されるなんて、とんでもないことと考えていました。

 盲学校では3人しかクラスメートがいなくて、先生も入れ替わり立ち替わり、しかも手取り足取りで丁寧に指導してくださいました。それがいきなり教官が 400人もの学生の前でぽつんと難しい講義をするところに放り出されました。こんな中で、人とどう付き合ったらよいか、簡単にいうと社会性ということですが、皆目検討がつきませんでした。この社会性を身に付けずに社会に放り出され、その後はふつうに生活していけるなら、最初から盲学校に行かせるのは間違っていると思っていました。いずれ社会に出されるなら、どうして小学校の時から普通の社会(普通の小学校)に出してくれないのか、とも思っていました。若かったせいもあり、しばらくの間、ずいぶん強い特殊教育批判の考えをもち、強いインテグレート信奉者になっていました。障害児教育なんかやめてしまった方がよいのではないかとも思った時期もありました。

盲学校での確かな点字教育の必要性

 そういう中で実はそうではない「特殊教育は必要」ということをずいぶん後で思うようになりました。なぜかというと、一つはそのころインテグレートが徐々に流行ってきており、私が社会にでてしばらくたってから、小中高と盲学校を知らずに過ごした全盲の人たち何人かに会いました。その人たちが大学進学を目指すとか、自らの職業のことを考えるという事態になったとき、視覚障害者として最低必要な基礎的な教育を受けられずにいたので、いろいろ問題になっていることが後になって実感しました。このことは、インテグレートのときの条件がしっかりしておれば問題はありません。条件の整っていない中で無理矢理統合教育を受けると、どんなにつらいことになるのかを後で知りました。統合教育でやっていける人間もいれば、そうでない人間、障害のために専門教育を必要とする人間もいるということを強く思いました。

 つまり、私の場合、盲学校にいて良かったのは、情報を得るための道具としての点字をきちんと獲得させてもらえたことです。もう一つは先ほど言ったように、私は重複障害でしたから、あの時代の普通教育だったらつぶされてとてもやっていけなかったと思います。私がほかの障害者と違う障害者であることを自ら感じたのは、視覚障害でなく、肢体不自由でした。

 当時、私は盲学校の中でも肢体不自由があるために、生徒も先生もまた友人たちも大変優しく、視覚障害以外のハンディを持った私に対して色々配慮をしてくれ、いじめにあった覚えもありません。そういうことから、私は盲学校を出ていてよかったと思っています。

 もう一つ、先ほど述べたように、きちんとした点字教育をうけたことがよかったと思っています。きちんとした点字教育を受けたことは、私が大学受験を点字受験で挑戦したときに大いに役立ちました。大学受験では当たり前のことですが、スピードと色々な文字を読みこなす能力が必要です。たとえば英語ですと略字を使わなければ、あの受験スピードにはついていけません。そこをきちんとこなせるように教育されました。

 それからその後、東京都の公務員試験を受けたわけですが、分厚い点字本2冊分ぐらいの試験問題で、100問から150問ぐらいの問題がありました。一般教養の3択問題を次々と解答しなければなりませんでした。ひたすら読んで解答していくわけですが、それを読んで解答していくだけの十分なスピードを、私は盲学校で身に付けさせていただきました。

 今は盲学校に在学し、きちんとした専門教育を受けて本当によかったと思っています。適当な普通字の教育と適当な点字の教育を受けていたら、私は文字というものを本当に必要な生活情報を得るための道具として獲得できなかったと思っています。これは後になって色々な失敗事例をみながら思ったことです。

 

●盲学校の価値は専門性

 そういう中で今強く考えていることは、盲学校など特殊学校に入学するときには、一つは社会性というか、人間との正常なつき合い方をすることを犠牲にして、その上で視覚障害に対応する専門の教育(専門の力)を受け、生きていく力を得るのが盲学校(特殊学校)であると、私は今考えています。逆に言えば社会性を犠牲にしてまでも、それに足るだけの視覚障害教育など障害児教育の専門教育が得られないならば盲学校を初めとした特殊教育の存在価値はないと思っています。

 社会性の犠牲はあまりにも大きく、私は大学に入って1年生の終わりぐらいにノイローゼになりかけました。とてもじゃないが大学生活は続けられないと思い、やめる覚悟を決めました。そのとき、私の人生の師である社会福祉の恩師が、いかにそんなことはないのか、ということをいろいろ話してくださいました。

 障害者からみれば、障害を持っていない普通の人たちは、何でもできるスーパーマンのように感じていました。一ヶ月に専門書を20冊ぐらい読むのかなと、本当に思っていました。私はどれだけ頑張っても1冊ぐらいしか読めない。普通の学生は、20冊の専門書を読み、まじめに勉強してレポートを書いているとも思っていました。こう言ったとき恩師から笑い飛ばされました。一ヶ月に1冊の専門書を読めるんだったら、立派なものだとも言われました。それほどに私たち障害者は障害を持たない普通の人たちの能力とか生活をしらないので、あこがれを含めて、すごい劣等感を抱いておりました。このことは盲学校など隔絶された生活の中から生まれてくるものです。

 そういうことがあったとしても、盲学校で専門教育をうけることが必要であると、多くの人にわかるような盲学校教育、特殊教育をしてほしいと強く思っています。そして盲学校にはその使命が間違いなくあるのです。

 

●初めての就職と視覚障害リハとの出会い

 こんなことを考えながら、私は大学を卒業しました。しかし、大学は出たけれど視覚障害者に就職はないのが現実でした。ところが幸いなことに名古屋ライトハウス、当時あけの星声の図書館、点字図書館ですが、そこの岩山館長(全盲)から就労の依頼を受けました。ちょうどそのころ、点字図書館にやたらと人生半ばで視力を失った人たち(中途視覚障害者)がいろんな相談を持ち込むようになっていました。というのは、そのころ視覚障害の専門機関は盲学校か点字図書館しかありませんでした。名古屋ライトハウスは当時から歴史のある機関ですから、そこにいろんな相談が持ち込まれるのは当然ですが、どうしていいのか大変困っていました。

 それでソーシャルワークを勉強した私に、点字図書館の職員を兼務しながら、視覚障害者の相談にのってほしいとの依頼を受けたのです。私としては就職できるとは思っていなかったので、とてもうれしく、すぐお受けしました。そこではじめて本日のテーマになっている視覚障害者リハビリテーションの必要性を知りました。

 私は当時、視覚障害者のリハビリテーション技術をほとんど持っていませんでしたが、ターゲットになっている中途視覚障害者から2年間で延べ50名の相談を受け、障害者手帳を取るとか年金の話とか紹介すると同時に点字指導を中心にして活動していきました。また、点字指導をする際のは、グループワークのまねごとのようなこともしておりました。その中で短歌の会とか、俳句の会をつくったりして2年間を過ごしました。

 

●中途視覚障害者との印象的な出会い

 このときの印象が私にとって非常に強烈でした。というのは私は筑波大学附属盲学校でたくさんの優秀な全盲の方にお目にかかっていました。実は私のそれまでの印象では、全盲の人の方が障害をうまく割り切るというか、障害を理解しているせいなのかもしれないが、すごく勉強していて、勘も良くてだいたいクラスの中で主席でがんばり、教員養成施設にも受かるような全盲の方が多かったです。 さらに大学に進まれる方が多かった印象をも持っています。弱視というのはいい加減中途半端で、分かったような分からないような、障害の認知もいい加減だったので、自分自身も含めてあまりちゃんとした成績があげられないのだと、私は評価していました。

 優秀な全盲の方をたくさん見てきました。それこそ杖1本もって何処へでも行ってしまうような人もたくさん見てきました。そういう人が視覚障害者だと思っていました。ところが、中途視覚障害の方に会うと最初に言われるのは、一人では何もできないということでした。

 最初は箸を使って食べることもできないのですが、無理矢理スプーンを使って何か食べても、何がなんだかさっぱり分からない、ものの味がしないということでした。とにかく見えなくなることは、こんないやなものかと思い、自殺を考えてしまうということでした。後で調べてみると、中途視覚障害者の約8割から9割は自殺を考えるくらい、それほど中途視覚障害者の問題は深刻だということです。それこそ一人でトイレもいけないことから始まって、歯磨きをするのに、どうやって歯ブラシに歯磨き粉をつけたらいいのか分からない、また分量も分からない。

 一番印象的だったのは、高校2年の時にバイクの事故でいきなり失明した男性の相談にのったときのことです。大変ショックだったこともあり、素直に感情を表現してくれました。というのは、彼は手で持って簡単に食べれるので、菓子パンが大変好きだったそうです。現在では菓子パンでも本物の果物が入った高級なものがありますが、30年ほど前はメロンパンとかイチゴパンとかジャムパンでもみんな化学合成の人工甘味料を使ったものが当たり前でした。そのとき彼はメロンパンが好きだったので、メロンパンとイチゴパンを買ってきてもらったそうです。喜んで口の中に入れたら、メロンパンもイチゴパンも味がほとんど変わらない。みんな甘ったるいだけのパンに思えたそうです。

 それでよくよく聞いてみると、要するに合成甘味料でつくった昔の貧しいパンであるメロンパンとイチゴパンの違いは、イチゴパンは中のクリームが赤くて、メロンパンは緑色をしていること、つまり色で区別していただけです。味を区別するのに本当の味ではなくて視覚で区別していたのだ、ということを後になって専門書を読んで知りました。視覚というのは、私たち人間の全感覚のコンダクターの役割を果たしています。眼はそういう代表的な感覚であって、例えばこれは刺身だとか、これはメロンパン、イチゴパンであることを認知するのは、まず眼(視覚)でみて、色で確認して、そのうえで味覚とでハーモニーを持って認知するのです。決して味覚だけで判断するわけではないのです。

 

●自信を失う中途視覚障害者

 多くの感覚を支配している視覚がなくなるとどうなるかというと、ほかの感覚を通して感じていた味覚などに対する信頼性が一切なくなってしまいます。だから何をやっても自信がなくなるということになるです。今まで視覚的な生活をしていた人が、いきなり人生半ばで視覚をほとんど失うか、相当失うと、すべての生活の信頼性を失ってしまうのです。これは当然心理的に大きなダメージであり、それと同時に当たり前のことですが、社会的な役割を一切失うのです。

 つまり今までどこかの会社に勤めて、ばりばり仕事をこなしていた人は、簡単に言うと一人で歩くこともできないし、文字の読み書きもできなくなるのです。もう会社を辞めざるを得ないのです。そうすると経済的な担い手としての役割も失い、一家の長としての役割も失うのです。悲嘆にくれるのは当たり前なのです。

 主婦の場合も同じで、今までやっていた料理や掃除など家事のことや子どもの世話ができないと思いこんでしまうのです。見えないのですから危なっかしくて赤ちゃんの世話や包丁を持つことなどとんでもないと思われてしまうのです。主婦としての役割を失うのですから、経済的にも役割喪失的にもこのような理由で離婚された例がたくさんあるのです。このようにおおきなショックが次々重なって、そして自殺を考えるに至るのです。

 

●中途視覚障害者と先天盲

 世界で最初にこういった中途視覚障害者のことをきちんと分析したのは、トーマス・キャロルという神父であることは承知のことと思います。彼は20の喪失ということを書いています。中途視覚障害になったときに20のことを失うと言っているわけですが、これは視覚障害リハビリテーションの定式となっています。私が書きました「視覚障害者の自立と援助」という介護福祉士のためのテキストにも載せておきました。

 当時私は視覚障害者といえば筑波の私の友人のことしか頭になかったのです。本当に驚きました。なぜ先天盲と中途視覚障害者がこんなに違うのかというのは、先ほど言ったように、今まで視覚的な生活をしていた人が、いきなり視覚を断ち切られたときどうなるか、ということです。それと逆に幼い頃から視覚障害を持っていた人はどうなるかというと、いつの間にか代替機能を自然と身に付けているのです。ただ、先天盲の方の中には、視覚を使わないで代替的な機能を使う方法を教わった人は、残念ながら日本には少ないのです。                      

 人間というのは大脳というすばらしいものを持って生きているのですが、お分かりのように動物は、視力を失ったら死しかありません。人間はこのすばらしい脳の器官と社会があるおかげで生きていけるのです。先天盲の方はいつの間にか視覚を使わないで、他の器官(感覚)で代替する機能をなんとなく発達させているのです。

 例えば今私は、このホールで話していますが、いつの間にか反響が伝わってくるのです。私は相当見えているので分かりますが、この反響だけでこの部屋はどのくらいの大きさで、人は何人ぐらい入っているのかが分かります。私の同級生である歌手の長谷川清さんは、このことがよく分かるそうです。人が入っているとそれだけ音が吸収されて、今自分がどんな環境にいるのかが反響を聞いただけで分かるそうです。これは幼いときから自然に身に付けるトレーニングで、それこそ自然に身に付けているのです。

 しかし、先ほど言ったように中途視覚障害者は、いきなり今まで一番頼りにしていた視覚を失うのですから、そのような力が身に付いていないのは当然です。

 

 

●難しい中途視覚障害者の理解

 中途視覚障害者には気の毒な話ですが、私はよくエピソードとして次のようなことを話します。それは、全盲の方の奥様の話ですが、その方の主人は先天性の全盲で、しかも一般に言う勘の良い方で一人で何でもできるし、慣れたところは自分で移動もでき、出張治療にも行かれる方です。

 その奥様が道を歩いていたら、ある女性にいきなり呼び止められたということです。それでその方が言うには、「あなたの近所に住んでいるのですが、最近主人が糖尿病性網膜症を患い、視力を失いました。それで年齢はあなたと同じくらいなのに、あなたをみていると何でもできるのに、うちの主人は一人では何もできない。畳の部屋に一人であぐらをかいて座り、一日嘆いている。どうしてこうなのか。何とかしてください。よほどうちの主人は勘が悪いのですかね。」と言うのだそうです。まさにこれがいわゆる先天性の視覚障害者と中途視覚障害者の決定的な違いであって、一般の人にはこの違いが分からないのです。それと同時に私もこの違いが分からなかったのです。

 何十年もかけて生きていくすべを、つまり、知らず知らずのうちに代替機能を身に付けた先天盲の方と、40歳ぐらいで視力を失った方とは、同じ視覚障害という状況であるにもかかわらず、その中でのニーズが全く違うのです。これを2年間の経験の中でいやというほど学びました。

●日本での視覚障害リハの始まり

 そのころ、日本ライトハウスが視覚障害者のリハビリテーション、特に歩行を中心にしたものをアメリカなどからインストラクターを招いて行っていました。日本に中途視覚障害者のリハビリテーションが導入されてまだ3,4年のころでした。それで今言ったようなことの理屈付けを後から勉強しながら覚えたものです。それともう一つ、社会福祉をやっているものにとって、非常に印象的であったのは、視覚障害者のリハビリテーションがあるにも関わらず、全然普及していないのはなぜか、ということでした。

 それは、ちょうどそのころいわゆる脊椎損傷のリハビリテーションが軌道にのりはじめた頃で、例えば脊椎を折ってその次どうするかということが克明に分かってきておりました。延命治療が終わった途端に、保有機能強化のための筋肉トレーニングとか、ショックを5段階くらいに分け、それを乗り越えるための精神的な初期治療などから始まって、その過程の中で、医療チームがどう援助をしていくべきかのマニュアルなどもでてきておりました。

 それに比べて視覚障害者、特に中途視覚障害者に対するサービス、支援がこんなにひどいものかと憤りすら感じておりました。だいたいその頃、私のところにきた人たちは、「手帳はもらったけど」という人が多かったです。また、手帳すら知らない人もいました。手帳の交付以外、行政は何もしていない現状でした。 当時私ができることは点字をきちんと読み書きできるように指導することぐらいでした。そして、それなりの能力のある人には盲学校に行く準備をしてあげたり、年輩の方には在宅で点字を教えに行ったりして、何か生き甲斐づくり、例えば先ほどの短歌とか俳句とか、その人の好きそうなものを探したり、テープ図書を紹介したりして2年間をすごしました。

 大変心残りでしたが色々な事情があって東京都にもどって公務員として児童相談所に勤めるようになりました。その後大学院に入学しました。しかし、大学院でも視覚障害者、中途視覚障害者のリハビリテーションなどについて研究する機会はありませんでした。

 

●高知でのリハとの出会い

 そんなとき、たまたま平成11年度に高知女子大学に社会福祉学部をつくるということで、障害を持った教員が一人いてもいいからと、紹介を受けました。視覚障害者の就職は非常に厳しく、大学もご多分に漏れず、非常勤は割とあるのですが、常勤は大変難しい状況でした。ですから私は、東京から誰も親戚縁者のいない高知に喜んで赴任させていただきました。

 そこで私はたまたま県費で日本ライトハウスで研修してきた若い視覚障害者生活訓練指導員、社会適応訓練指導者とかいろいろな呼び方はあるのですが、その若い女性に会いました。彼女は平成11年度に郷里の高知に研修からもどってきていました。私は彼女と彼女が学んで来た視覚障害リハビリテーションに関心があって、平成11年の6月頃に彼女にお会いしました。

 ところが、せっかく専門の教育を1年間受け、高知で視覚障害リハビリテーションの仕事をがんばろうと思っていたにもかかわらず、ニーズがないということで月に5日間しか訓練業務に当たれない状況でした。あとは事務の非常勤をやらされている状況でした。だから高知での仕事をやめて、東京か大阪で仕事を探したいと言っていました。

 とんでもないと私は思いました。全国で視覚障害者のリハビリテーション専門家である生活訓練指導員は600人ぐらい養成されています。しかし、きちんとその業務に携わっている人は半分にも満たない状況です。高知にそのような人がいて、非常勤でしかも安い給料で高知にいられるのは、その人が高知の出身で、親元から通っているからできることです。新しい人を高知で雇うことはとうていできないことですから、せっかくの宝物を逃してなるものかと私は思いました。

 

●県職員提案事業に「ルミエールプラン」提案

 昔のイメージがよみがえってきて、中途視覚障害者の自立支援ということを本気でやろうということになりました。そこで県職員提案事業に「ルミエールプラン」を提案をしました。それがどうなったかをここで話す時間的な余裕はとてもありません。それでルミエールサロンにつて知りたい方は、岐阜盲学校に資料を提供してありますので、みていただきたいと思います。また、実際ルミエールサロンがどんな運営をしているかは、今年の7月に発売された大活字から発売された「視覚障害者の便利グッズカタログ2003」に3500字ぐらいのエッセイを載せてました。読んでいただければ幸いです。

 

●視覚障害リハビリテーションとは何か

 視覚障害者リハビリテーションと、その中で外部から見た盲学校、つまり盲学校に期待していることについて話したいと思います。

 視覚障害者、特に中途視覚障害者のリハビリテーションとはどういうものか、また、中途視覚障害者がいかに幼い頃からの視覚障害者に比べて、違うダメージを受け、違うニーズをもっているのかを、いままで話しました。

 では視覚障害者のリハビリテーションとはいったい何かということになります。日本ライトハウスでずっと「視覚障害者生活訓練指導員」の教育に携わっておられる芝田先生の言葉を借りると、非常に簡単に言ってしまえば、視覚障害者のリハビリテーションとは、いままで視覚を生かして生きてきたときの知識とか基本的な生活技術をもとにして、その上でそれをもとにして視覚が十分使えなくても、あるいはほとんど使えなくても、視覚を使わないで生きていく方策、それに加えて新しい生活様式を獲得することが、いわゆる中途視覚障害者のリハビリテーションです。おおざっぱですがこのような言い方をしておられます。そしてその中で重要なことは、見えていたときに獲得した様々な基礎的な生活技術の上にたって、見えなくても生活できるようにほんの少しの工夫を加えることによって、見えなくても暮らせるような新しい視覚、生活様式を創っていくお手伝いをすることです。このことが視覚障害者のリハビリテーションであるという大きな視点に立っているのです。

 リハビリテーションには、基礎的なリハビリテーション(歩行、コミュニケーション、日常生活動作)と教育的リハビリテーション、職業的リハビリテーションと、もう少し大きな意味で社会的なリハビリテーションがあります。これはリハビリテーションの障害者に対する全体的な定義で、視覚障害者に限りません。日本ライトハウスで養成講習を行っているのは、基本的なリハビリテーションの部分を行っています。

 養成講習の基礎となるのは、歩行養成で、今はこれに半年かけています。その上で、視覚障害者に日常生活動作訓練やかパソコン等のコミュニケーション訓練を指導等ができるようにするための視覚障害者リハビリテーションの養成コース(後期課程)を半年行い、現在はその上に実習等を重視し、盲、聾等の二重障害者の訓練等が出来るようにするカリキュラムを加えた2年コースとなっております。

 2年コースが設置されたのは去年(平成13年度)からです。その前は1年のコースでした。

 

●理屈だけでは理解できない視覚障害リハ

 これから先は高知県で視覚障害リハビリテーションに携わる中でぶつかった壁つまり問題について、なぜそのような問題が起こるのかも含めて話します。

 視覚障害リハビリテーションについては多くの誤解があり、その誤解が実は、視覚障害者自立支援システムを構築する上で非常に大きな障害となっています。

 最初はとにかく視覚障害者のリハビリテーションのことと、専門家である生活訓練指導員の動き、すなわちするべき仕事とその有用性を啓発していったわけです。 その中で大変困った誤解がいくつか明らかになりました。

 その一つは、「高知県で訓練士は一人しかいないのだから、沢山の視覚障害者が訓練を受けられるように集団訓練でやってくれないか」かということでした。しかもこれは、先天性の視覚障害当事者から出てきた要求でした。視覚障害リハは、先ほど言いましたように、既存の知識の上に新しい工夫を加味して、新しい生活様式を獲得する、創ることですから、同じ視覚障害者でも同じに見立てることはできないのです。一人一人背景になっているものが違う中で、かつ視覚障害は幅広く、個人差が大変大きい、だから生活経験の違う人たちを集団的に訓練することは出来ないのですが、これを理解していただくのは大変難しかったです。

 もう一つでてきたのは、岐阜でもそうでしょうが、例えば昨年山田先生が3ヶ月の研修を受け、今年度もフォローアップ研修に行かれ、これで歩行訓練士の基礎養成コースを終わられるのです。すると、つぎにでてくるのは何かというと、「県費でなかなか長期研修をさせられないので、その人(山田先生)が他の人を指導して訓練指導員をたくさんつくればよいのではないか」という話です。 これは高知県でもでてきました。それからガイドヘルパーや看護婦さんから、「患者さんから歩行訓練の要求が強いので、指導をしたいからちょっとやり方を教えてください。その後は自分でやるから」と言われました。「それは無理」、このことがなかなか理解していただけなくて、理解して頂ける方法を今後考えていかなければなりません。

 私は大学の研修制度を利用して、日本ライトハウスで6ヶ月の研修を受ける機会を得ました。その中で、やっと「生活訓練指導員養成のキー」を少し理解できたのです。

 養成コースのカリキュラムの多くは、アイマスクをしての実体験です。歩行訓練だけで180時間行います。こういうことは、ほとんど知られていないのです。

 アイマスクをつけての実体験を、なぜこれだけやるのかというと、視覚障害(見えないと言うこと、個人差が大きいことなど)の本質を、まず徹底的に実体験し理解するためなのです。視覚障害者のリハビリテーション専門家を養成するとき、この「視覚障害の本質理解」に主眼をおいているからなのです。それと同時に自分がアイマスクをして、自ら被検者になって、歩行訓練を受ける中で、運動感覚等を使っての歩行訓練のやり方を、自らの体で覚えていくわけです。視覚障害の本質を理解し、体感するためにかかる最低限度の時間が半年と芝田先生(日本ライトハウス)は思っておられるのです。半年でも十分ではないとすら考えておられるようです。

 視覚障害の本質を理解することの重要性と、そのために要する時間の長さ、このあたりを理解していただくのが難しいところかと思います。また、視覚障害者の個人差の幅が思う以上に大きいことが一般にはほとんど分かってもらえないところが問題かと思います。

 身をもって、視覚障害の本質を理解した上での専門家養成です。本を読んだだけでできるようになるとか、少し指導を受けただけでできるようになるとか、そんな簡単なものではないのです。

 視覚障害リハの専門家である生活訓練指導員養成に関するこのあたりが、一般の方たちはもちろん、文部や厚生省の方たちにも理解して頂けない難関なのです。

 

●これからの盲学校対象者

 もう一つ、当事者の方に良くあることですが、先天盲と中途視覚障害者が全く違うニーズを持っているのに、全く理解されないのは、先天盲の方は自分ができるため、「あなたも努力すればできますよ」と比較的簡単に言われます。さらに視覚障害者のことは視覚障害者にしか分からないので、「自分たち(先天盲の人たち)が専門家なのだ」という意向が強く、これが地域に啓発発展させていくことを難しくしているのです。

 何でこのようなことをくどくど話したかといえば、私が今の盲学校教育の中に期待することは、これはみなさん十分承知のことと思いますが、盲学校の対象となっている視覚障害者の方たちは、層が以前とがらっと変わってきているのです。平成8年の調査では、全国に18歳未満の視覚障害児は5000人ぐらいしかいないということです。そのほとんどが重度重複障害者であることはご存じのとおりです。視覚障害だけで知的には問題のない方たちはほんのわずかなのです。ですから、盲学校では単一障害の児童生徒は盲学校にきても自分と同等レベルの人たちと子ども同志の社会を創れない。さらに盲学校はほとんど県下に1校しかないから、小さいときから寄宿舎に入る問題とか、通わせられない問題があって、だんだんそういう児童生徒は一般校に行かざるを得ない状況にあるのです。

 それで盲学校の対象となる児童生徒はたいてい重複障害を持った子供たちとなるのです。逆にいうと今は、重複障害者が盲学校で教育を受けるには、教材など物理的に厳しいので、重複障害を持った視覚障害者は、肢体不自由とか知的障害の学校に行っている状況です。そしてもう一方の人たち、高等部以上の人たちはどうなっているかといえば、つまり、どういう人たちがきているかといえば、いわゆる先ほどから言っている中途視覚障害者がきている訳です。

 もう一つは、知的障害がある視覚障害者で理療科には進めない人は、生活の勉強をするため普通科に進み、何年かかけて保健理療科にいき、何とか免許を取ろうとしています。それもできないような障害の重い人たちは、高等部普通科をでたらそこで家にもどるとか、それ以外はほとんど福祉施設入所ということになります。

 

●盲学校に期待すること

 高知県では視覚障害の専門機関は盲学校と市立図書館の中にある点字図書館しかありません。岐阜の場合は福祉の関係であるしっかりした視覚障害者生活情報センターぎふ(アソシア)があり、ずいぶん高知と状況が違うことが、この2日間で分かりました。そういうことを加味して聞いていただきたい。

 専門の研究調査によると、養護学校小学部に通う重複障害児の約8割は視覚障害を持つといわれています。ただ、視覚障害以外の障害が重いので正確には調査されていません。これは脳神経的な要素が絡むからといわれています。

 そこで盲学校に期待されているものは、重複障害児に視覚障害があるのかどうかを、視覚障害の専門家としてじっくり観察し、あった場合はそれに対してどういう指導をすれば、少しでも視覚障害というハンディを乗り越えやすくするかということを、指導できるノーハウを持つことです。これは、非常に高い専門性を要求され、厳しいことですが。

 次にでてくるのは普通学校に通っている弱視児や全盲の人たちを視覚障害の専門家(先生)の立場で支援していただきたい。特に弱視児については、教材の選び方から、机の位置など環境整備の仕方や拡大読書器の使い方、単眼鏡の使い方あるいは新しいその子にあった機材がどんなものかなど細かいことについての援助を盲学校できちんとしてもらいたいと願っているのです。

 また、視覚障害のことを知らない先生方は、その子のできないことがあると、それは何でも視覚障害があるからできないと判断してしまう。これは間違いで、視覚障害があるのでできないのか、能力が伸びていないのでできないのか、この判断を間違えてはいけません。人の限界の見極めをしっかりしなければなりません。「このように指導したらできるようになる」といった盲学校での具体的な指示を視覚障害者は望んでいるのです。

 

●中途視覚障害者と盲学校の役割

 高年齢の中途視覚障害者の問題になりますと、これは非常に大変なことで、本当は福祉機関がやるべきだし、そう期待されていますが、教育がその肩代わりをさせられているという話を聞きます。

 中途視覚障害者は先天盲の人と違って全く違うニーズを持っていて、まず、移動のことから、日常生活それこそコップに水をつぐような基本的なものから、色々工夫して指導しないと、自分で日常生活をすることすらできません。       

 その上で、点字を獲得するのか、あるいは中途視覚障害者は普通の世界で生きてきたわけだから、視覚障害の程度をきちんと評価した上で、できるだけ保有視覚等を使ったやり方での拡大読書器やルーペや音声とかを使っていくための基礎能力を付けること、さらには、生活の糧となるための職業訓練をしてもらいたいという期待が盲学校にはでてきます。というより中途視覚障害者にはこれしかないのです。盲学校しかないのです。

 全国には9カ所ぐらいの視力(覚)障害者センターがありますが、それは遠く地元を離れて行かなければなりません。地元で基礎的訓練をうけ、それから盲学校に行く、地元の福祉施設でリハビリテーションをやって、その後で教育に適する者だけ、教育的リハビリテーションとか職業的リハビリテーションを盲学校高等部に入学して行うべきではないか。それが順当です。しかし、地元にそんな福祉施設はないんです。残念ながらできる可能性は大変難しいのです。

 ただし、岐阜には大変すばらしいアソシアがあって、高知県に比べてずっと恵まれているのですが、それでも、中途視覚障害者に充分な生活の基礎能力をつけた上で、盲学校に通わせることは、アソシアでも難しいと思います。

 なぜなら、充分に基礎的な訓練をするには時間がかかるんです。中途視覚障害者は待っていられないんです。待っていられないのは生活がかかっているからです。ゆっくりと基礎訓練をやっているゆとりがありません。そんなわけで、充分に基礎的訓練が終わらない人たちが、盲学校に入学してくるわけです。

 さらに最近、糖尿病性網膜症が増えているので、腎臓障害などの合併症を持った人たちが寄宿舎に入寮して、人工透析を受けるような状況、そんな人たちが、現在の盲学校教育の対象となっているのです。

 このような人は福祉の対象であって、盲学校の対象ではないとか、重度重複の問題も、いまの中途障害の問題も含めて、盲学校の領域ではないとか、そういうことを言われることがあるのです。しかし、そう言っていると、どんどん生徒が減って行って、「盲学校は必要なのか」ということになるのです。

 

●これからの特殊教育・盲学校

 もう単一障害の視覚障害者はいないんです。視覚障害を補った上で知識領域の教育を受ければいいだけの人は、希なのです。そのような人たちが社会的なトレーニングを受けるためにも、親元から離れないで暮らすためにも、地域の学校に行き、統合的な教育を受けるべきだと、私は思っています。そうすると今言ったようなケースを、自分たちの教育の対象ではないとして避けていくと、盲学校はいらないことになるのです。

 実際的にそういう意味で、いま統合が図られようとしているのです。盲学校を総合養護学校のような形にする動きが今でていて、統合の話はずいぶん現実的なものになってきております。四国でちらちらでてくるのは、中学部以降は統合養護学校にしてしまう。そして、職業教育的な部分は高等盲学校として四国一円を対象にしてつくってしまう。このような動きがでています。

 つい最近まではそんなことは簡単には起こり得ないと思っていました。福祉の改革、社会福祉基礎構造改革のように今までとても動かないと思っていた措置が、障害者の支援費になったりしています。もっと前は介護保険がいきなり導入されたりして、老人福祉がずいぶん変わりました。今は聖域なんかないのです。財政危機が厳しいので、私が財務担当者だったら、次は教育に目を付けます。こんなに非能率的なことをやっているのなら、やめてしまえとさえ思います。

 

●専門家の養成には最低10年必要

 盲学校はとっても大事だと私は思っています。視覚障害という角度からきちんとアプローチして、きちんとそこから教育を考えてくれる盲学校は絶対必要なのです。中途視覚障害者の問題は福祉の問題ですが、どんなに中途視覚障害者が増え、視覚障害者が重度重複化しようとも、今の時代、そり名対応する福祉サービスは増えません。また、何でも大阪や東京に行って訓練を受けなければいけないというのは間違っていると思います。地域の中でしなければなりません。地域には、必ず視覚障害の専門機関である、盲学校があるのです。専門機関としての盲学校と、専門家としての先生への期待は、否が応でも大きくなると私は思うのです。

 しかし、今の盲学校の体制では、その期待には答えにくいと思います。

 盲学校の対象者が激変し、中途視覚障害者が増えているのだから、盲学校の中に視覚障害者生活訓練指導員のようなリハビリテーション専門家が絶対に必要です。盲学校の中から、「視覚障害者生活訓練指導員を常駐させて欲しい」どうぞ声を大にして言ってほしいと思います。

 視覚障害者生活訓練指導員が、寄宿舎とかあるいは自立活動のなかに入って、中途障害者の方のつらさや心理的なものや歩行を初めとしたいろんな訓練指導に関わっていけば必ず盲学校が変わるだろうと思います。

 盲学校には他領域の専門家が必要だと思っています。もちろん簡単にこんなことができると思ってはいません。しかも現場からそういう声が上がらなければ、いつまでたってもできません。もし、気がついておられるなら、声を大きく上げてほしいと思います。

 もう一つ思うことは、いま視覚障害の視点に立った、教育のアドバイスができる教員が求められています。これは地域支援やセンター化がこれに当たります。心苦しいですが、本当に盲学校の先生にできるのか、とも思っています。

 私は盲学校の先生が、視覚障害と言うものの本質を理解するためには、最低10年の経験がいると思っています。これは視覚障害リハビリテーション専門家である訓練指導員も同じで、スタートラインについてから、いい臨床家になるためにはやっぱり10年近くかかると思います。だから、盲学校の先生も視覚障害に視点をおいた教育、カリキュラムに組んだり、指導の工夫ができるようになるには、やっぱり10年くらいかかるのではないかと思っています。こんなにころころ先生方が異動していく中で、果たして視覚障害の視点に立った教育ができるのか、と思っています。

 異動も必要だと思います。新しい風が入ってくるとか、いいこともあると思います。しかし、特に普通科の先生は、3年ぐらいで替わっていきます。はっきり言ってこれは素人集団としか言えません。これは先生方が悪いのではありません。臨床なのだから医者だって、何年も何年も臨床経験を積んで初めてその分野の専門家になるのだから、視覚障害者教育の場合も同じだと思っています。

 しかし、なぜか、このように考えられていないんです。先生がころころ替わってしまうので、はっきり言って盲学校ばかりでなく今の特殊教育は、素人が必死になっている状態だと思います。

 

●盲学校教員にのぞむこと

 これを何とかしないと、やはり盲学校は不要なのかなと思われてしまいます。もう一つ、これは自分も当事者として言うのですが、盲学校におられる視覚障害を持った先生方は、視覚障害教育や福祉の中で、発言者として非常に大きな勢力を持っておられます。「あの先生が言ったのだから正しい」という見方がなされるのです。私も良く注意されるのですが、私は先天盲ですので、自分の障害についてはよく分かるのですが、中途視覚障害者の方のニーズはやっぱり分かっていないと思っています。中途視覚障害者のリハビリテーションについては、私と組んでいる専門の訓練指導員から山のように教わりました。「あつ、あつ」と何度も考えさせられることがいっぱいありました。

 こんなとき私がしていることは、その訓練指導員が若くて発言がなかなか認められないので、私が当事者として、彼女の発言を支援するような立場をとっています。盲学校の先生方は地域の視覚障害者の中の名士ですので、その方が「これが当事者が言う視覚障害なんだ」という発言をなさったときに、それが非常に大きな影響を及ぼしてしまいます。

 それが正しいなら良いのですが、正しくないことも多々あります。というのは、視覚障害のリハビリテーションが日本に根付いてから30年しかたっていないのです。そして、まだ十分根付いていないのです。だから多くの先天盲の方はリハビリテーションを受けた経験がありませんし、残念ながら、自分たち先天盲は中途視覚障害者ではないのでその立場を味わうこともできていないのです。

 ですから、このことを考えて発言をしていただけると、もっと視覚障害のリハビリテーションが社会に受け入れられると思っています。

 

まとめ(今こそ教育と福祉の連携)

 最後に一言、私が大変尊敬している柳川のリハビリテーション病院の高橋先生という眼科医で、ロービジョンケアの普及に専心しておられる先生が、次のようによく言われます。

 それは、今までの視覚障害リハビリテーションは、中途視覚障害者に関しては、医療から切られ、絶望し、サービスのない中、絶望から必死になってはい上がってきた人だけをすくい上げてリハビリテーションをやっている。これはとんでもないことだというのです。先生が目指しているのは、いつの間にか気がついたら、いつの間にか医療から職業リハビリテーションや教育リハビリテーションや社会リハビリテーションの方に自然に移行しているなと思われるような形でのリハビリテーションなのです。今までのように一度千尋の谷につき落として、その絶望から自力ではい上がった人たちだけを対象とするようなリハビリテーションは、とんでもないと言われています。

 私は、盲学校に入学される中途視覚障害者はそういう思いをして盲学校にたどり着いていると思いま。ところがとても残念なのは、それを教育という意味だけで、盲学校が受け止めることです。教育というのは大人が子どもを導くという考え方でみるということです。このことは中途視覚障害者にとって、それはたまらないのです。中途視覚障害者の方は先生方より年齢が高い方もみえるのです。そして辛酸をなめて、それから人生経験を積んで、ある面で仕方なく盲学校にきておられるのです。ここで何か出きないか、ここで何か新しい人生が開けないか、と思って、やっとたどり着いたら、「あんた文句ばかり言って態度が悪い」とか、知的障害の方を指導するような押しつけのような指導をされたりすると、やっとやる気になった自尊心がぼろぼろになって脱落していかれます。

 どうぞこのように中途視覚障害者の方を扱わないでいただきたい。能力的にもいろいろ難しいと思います。教育の対象でない方も沢山見えます。ニーズあっての福祉、サービスです。私たちがサービスで食べていけるのは対象者がおられるからです。ですから対象になっている方々の状態とか、能力の評価とか気持ちとかを、十分理解していただいた上で、盲学校の新しい方向を目指していただきたいと思います。

 もちろんこれは教育のみでやることではないと私も思っています。誰かが言われたように福祉がいい加減だからいけない部分もあると思います。

 だから、いまこそ教育と福祉の連携だと私は思っているのです。

 

●追伸(文字の獲得と弱視教育) 

 ここで、いい残こしたことを言わせていただきます。

 先ほど盲学校で授業を視させていただきました。私もとても勉強をさせていただきました。小学部、中学部、高等部の授業の中で、主に弱視の方の視力を使っての授業を希望して視させていただきました。また、中途視覚障害者の方はおられない状況のなかで、自立活動を視させていただきました。そのときに見え方の評価をしておられる授業を見て、大変感心しました。

 その上で、中途視覚障害の方の場合にも、どの文字を使って、どう勉強するかということを考えておられるのかな、と思いました。

 私の知っている盲学校では、中途視覚障害の方も含めてかもしれないが、普通字を主に使うのか、点字を主に使うのかということについて、けっこう恣意的に決められている感じがしています。

 私は時期が悪く弱視教育を受けられませんでした。昭和39年頃から弱視教育が始まったのですが、私はその前に小学校に入学しています。それで点字で教育を受けました。このことはとっても残念だったと思う反面、徹底的に点字を鍛えられたため、自分の文字になりました。このことは大変良かったと思っています。 なぜそういう感想を持つかと言えば、ある程度の見え方をしている人たちが、点字で学習するのか、普通文字で学習するのか決めるのにどういう基準があるのか、ずいぶん不安というか、不満を持っております。

 あるところで聞いたことですが、小学1年生は点字でやり、2年生の時は普通文字でやり、3年生になったら、また点字でやりましょうと言われたそうです。

 また、中途視覚障害者の人が入学してくると、特に理療科の文字が東洋医学に関連した文字で画数も多く、大変難しい。だから、「少し見えていても点字の方がいいです」と言われたりします。

 これは非常に問題で何を根拠にして点字か普通文字かを決めているか分かりません。その辺が盲学校の専門性に関わる大きな問題ではないかと思っております。

 文字を実用的に使うためには、1分間に150文字は読めないと文章としてつながっていきません。例えば非常に視力の弱い人が、適当な補助具もなしで普通文字を使わせたりすると、時間がかかり、くたびれてはてて、小さい子どもは読むことそのものに興味を失います。さらに学習意欲を失います。それと同時に実用性の問題です。点字だったら十分に実用的になれますし、多少見えているなら遊びとか漫画を読むときには補助的に普通文字を使うが、学習にはは点字を使うようなことが必要だと思います。

 また、視力が悪くても、適当な補助具をつかって、充分普通時での学習が可能な弱視児も多いと思うのですが、弱視レンズや拡大読書機などの使い方を正しく指導できる先生が、非常に少ないのは悲しむべきことです。きちんとした判断基準もなく、「点字だ」「普通字だ」と決めつけるのは、とても危険だし、許されがたいことです。

 盲学校には、このような教育上の専門性が求められるのではないでしょうか。残念ながら大変曖昧になっている例を、私は見てきています。岐阜盲学校がそうだとはいっていません。全国的に何となくこうなっているように思えます。

 もう一つ、これは視覚障害福祉全体にいえることですが、8割から9割は何らかの保有視覚を残しております。光覚から始まって、非常によく見える人までいろいろ見え方はあります。相当に視野障害がある色素変性症までも、例えば拡大読書器などをうまく使えば、視覚としての能力をいろいろ引き出すことができます。そういう弱視の人に対する対策が、視覚障害者教育でもリハの分野でも、大変遅れているように思えます。 8割以上が保有視覚を残しているとき、保有視覚をうまく活用して何かをするという観点のものの考え方がリハビリテーションの上で欠けているのかなと強く思っております。

 評価と保有視覚、例えば聾学校では補聴器等を使った音の保有能力に対する敏感な指導がされているのですが、なぜか盲学校では指導が乱暴だなという印象を受けています。こんなことも今後の盲学校に望むこととしてお話ししたかったのです。

 

 

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